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旅のお供に聖書を選んだ理由

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今、私は、アメリカ行きの飛行機の中でこの記事を書いている。
飛行機の中では長時間眠れない性質なので、移動時間が長くなれば長くなるほど持参する本の重要度が増してくる。

今までは一回の旅に10冊程度の本を持参していたが、今回のように5泊で4都市、しかも飛行機と電車とバスを駆使して周る旅だと、荷物はなるべく軽くしたい。

何の本を持っていくか、出発直前にひらめいた。
「そうだ、聖書だ!」
とても薄い紙を使っているので、新約聖書だけなら厚さは3cm程度。
大きさは文庫本よりやや大きい程度。
それなのに、中身は小さい文字がぎっしりで、一週間では読み終わらない。
しかも聖書は、読み返したいと思いつつ時間がないと言い訳をして先送りにしていた本なのだ。

 

私は小中高の12年間、カトリック系の学校に通っていた。(ちなみに両親も私も信者ではない。)
12年の間、毎週一回「宗教」という授業があり、聖書の主要な部分は一通り目を通した。
とても感銘を受けた箇所もあれば、授業で習う解釈がどうしても理解できない箇所もあった。
(神様はそういうことを言っているのではない。神様はそういう方ではない。)
そういう思いが湧き出る度に、「先生が言うことは絶対正しい」と信じていた幼い頃の習慣のまま、違う解釈をする自分を押さえつけていた。

高校を卒業しても、何かを判断するときに、カトリックの教えは重要な判断基準だった。
自分が好きな箇所の教えをもとに判断をすることは何の問題もない。
しかし、納得していない箇所の教えに自分の判断が左右されるときは、苦しくてたまらなかった。
そしてついに耐えきれなくなり、カトリックの呪縛を断ち切ることを決意する。
子供のときにもらい、ずっと肌身離さず身につけていた御メダイを手放した。
聖書のこともすっかり忘れてしまった。

次に聖書を読んだのは、それから20年ほど経過した後だった。
何がきっかけだったのかは忘れたが、パール・バックの解釈による聖書を読んだのだ。
それは宗教色が全く排除されたもので、読み物として純粋に面白かった。
人間の業が的確に描写されており、2000年以上も読み継がれる理由がよく分かった。
長い間、聖書は神様の言葉だからと肩肘張って読んでいたけれど、読み物として自由に読むこともできると理解したのだ。

そして先日、突如として聖書の一説の解釈が降りてきた。
五つのパンと二匹の魚の話だ。
長年の疑問が氷解したことに心が激しく震えた。
そして、かつて理解できなかった他の箇所も、今なら理解できるかもしれないと思えた。
こういう思いがあって、聖書を旅に持参するに至ったのだ。

搭乗してから10時間が経過し、長距離フライトの所要時間の三分の二を経過した。
聖書をパラパラと読み、うたた寝をし、文章を書く。
これを何度か繰り返している。
いつももっと時間を掛けてやりたいと思っていることがまとめてできるのだから、長距離移動も悪くない。

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