『ありのままの私』(後編)差別により手に入る自由と、性同一性障害についての考察


先日、安冨歩さんの講演を受けて購入した本の話、後編。

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差別がゆえの自由

「立場主義」の説明の中で「無縁者」という言葉が出てきた。

役を果たせば立場を守ることができるが、果たせなければ「役立たず」となって、立場を失う。立場を失った者は、「無縁者」となって人々から庇護されなくなるが、同時に自由を獲得する。

このことについて、タレントのマツコ・デラックスを例に一歩踏み込んだ考察が書かれている。

マツコ・デラックスは『デラックスじゃない』という著作の中で、歯に衣着せぬ発言によって人気を得ていることについて、こう言っているそうだ。
「男も女も敵同士なんだよ。同性も異性も敵なのよ。その点オカマは、いい言い方をすれば中立、悪い言い方をすれば、仲間はずれなのよ。そんな仲間外れの人間が言うことなんて、男にとっても女にとっても、痛くも痒くもないわけよ。」
「アタシはヒエラルキーの中にすらいないのよ。どんなにコッチからケンカを売っても、利害関係もない「部外者」だから、本気でかかってこないのよ。」

この文章を読んで、私は1980年代後半からテレビに多く出始めた外国人タレントを思い出した。
ケント・デリカット、ケント・ギルバート、チャック・ウィルソン、ダニエル・カール、デーブ・スペクター…
当時は、彼らが「本質を突くことが許されるヒエラルキー外の存在」として重宝されていたように思う。
ハーフというだけで虐められていた子がいるくらい、日本人は「血」にこだわる傾向がある。
外国人をひとくくりにして「外人」と呼び、日本人という仲間から外れた「部外者」「無縁者」としていたのだ。

日本に住む外国籍の方が増え、インターネットで瞬時に情報が世界中に共有されるようになった現在では、外国の方をヒエラルキー外の存在と明示することに自制心が働いているのであろう。
そのため新たなヒエラルキー外の存在を探した結果、男でも女でもないオネエタレントに行き着いたのだと思われる。
なにせ、生まれる前から性別を気にするくらい、男か女かも重大な区別の要素なのだ。

こうしてマツコ・デラックスは、「ヒエラルキーの外」という嫌われずに本音を吐けるポジションに収まった。
このことを、かわいそうに思うか、自由で羨ましいと思うかで、自分がどれだけヒエラルキーに依存しているかが分かるかと思う。

性同一性障害は障害なのか?

性同一性障害という言葉がある。
身体的な性別と性自認が一致しない人に対する医学的な疾患名だそうだ。
なんと病気として扱われているのだ。

子供が生まれたら男集団と女集団に振り分けて、それぞれの集団にふさわしい振る舞いをするように圧力をかける。
これが秩序の基盤だと多くの人々が認識している。
男性器を持って生まれた人が社会的には女性として生きたいと考えることはヒエラルキーの外に出ることであり秩序を壊すことなのだ。
そこで、その意識を「障害」として病にしてしまうことで、「病気なんだから秩序を乱すのもしょうがないね」として受け入れる。

この「病気」の人が、社会的に身体的な性別とは違う性別として扱われることを希望した場合、日本においては下記の要件を満たした場合に戸籍の性別変更が行われる。

一  二十歳以上であること。
二  現に婚姻をしていないこと。
三  現に未成年の子がいないこと。
四  生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五  その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。
— 性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律、第三条
これの四と五にとても驚いた。
・生殖機能は持ってはいけない。
・性器の形状を変えなければいけない。

もちろん、男性器が欲しい女性や、男性器に愛着が持てない男性が、自主的に性器の形状を変更することは大切で必要なことである。
しかし、安冨さんのように、性自認は女性で恋愛対象も女性である場合(安冨さんは自身のことを「トランスジェンダーでレズビアンの男性」と分類している)、今の身体のままであれば愛する人との間に子供を授かることも可能だ。
だが、こういうトランスジェンダーでレズビアンの男性が戸籍上の性別を変更したいと願った場合は、生殖機能を失わなければいけない。
「性自認と社会的認識を合わせたい。」「愛する人との子供が欲しい。」
この2つの当たり前の願いを同時に叶えることが出来ないのは、なぜなのだろうか。
そして、生殖機能のない性器の見た目を変えることを強制するのは、なぜなのだろうか?

性同一性障害の「治療」やそれに伴う戸籍の変更は、性同一性障害という「病人」を、「男性器を持つ人は男らしくありなさい。女性器を持つ人は女らしくありなさい。」という世の中の秩序に当てはめるためにある、としか考えられない。
トランスジェンダーでレズビアンの男性は、治療をしても、「男性器を持つ人は男らしく」という秩序に当てはまらないので、「治療」の対象にはならないのだ。
上記に一部を引用した『性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律』の提案趣旨内には、「性同一性障害者の社会的な不利益を解消する〜」といった文言が見られるが、結局のところは「あなたは異常だから、この世の秩序に合うように身体を改造してね」というのが本音なのではないかと考えざるを得ない。

まとめ

この後編に該当する部分は非常に興味深かったため、安冨さんの本から飛躍した内容の記事になってしまった。
マツコ・デラックスと無縁の原理についてや、性同一性障害については、『ありのままの私』の本文内で、もっと噛み砕いて解説されている。

この本を読んで、人間がどれだけ「区別」され、そこから生まれる「立場」に根深く支配されているかに気がつくことができた。
人間の作り出した今ではもう必要のない支配に縛られていること、そして多くの人がその事実に気がついてないことを恐ろしく思う。

最後に、第6章美しさとは から、印象的な言葉を引用する。
私も「立場主義」から抜け出して、美しくなりたい。
そして、世の中の人々が皆「立場主義」から抜け出すことができたら、どんなに美しい世界が待っているのだろうか。

美しさとは、作るものではありません。掘り出すものです。自分自身という金鉱を探し出して掘り当てる。そうすると人は、美しくなるのではないでしょうか。
美しくなるために最も大切なことは、自分自身を生きることなのです。

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