哲学とは生き方だ。誰もが持つ哲学について
哲学とは
「哲学」と聞くと、堅苦しく難しい印象がある。
哲学者たちがどこか遠いところで難しい言葉を捏ねくり回しているような、そういうイメージだ。
しかし実際のところ、哲学は誰もが持っているもの、身近なものだ。
例えば、鉄道(電車、汽車…)に一度も乗ったことがない人はそこまで多くないだろう。誰にとっても身近な存在だ。
ところが鉄道オタク達の手にかかると、「115系には113系にはない抑速ブレーキが付いておりノッチ戻し制御が可能でMT比が高く設定され…」と途端に何を言っているかが分からなくなる。
哲学も同じである。
私たちが難しく感じる哲学は、哲学オタク達が探求に探求を重ねた部分であり、素人には何を言っているか分からない。
でも本当は誰もが持つ身近なものなのだ。
(ちなみに113系はかつて山手線にも使われ、日本のあちこちを走っていた汎用的な車両である)
哲学とは何だろう?
では、哲学とは何か。
三軒茶屋にあるカフェマメヒコのオーナーの井川さんに、それを教えてもらった。
カフェマメヒコがかつて開いた『哲学教室』の案内文から、井川さんの言葉を引用する。
哲学は大事です。大事ですけれど、哲学とは目に見えるものではないのです。
そう、風のようなものです。風はなにか揺らすものがあって初めて風だと分かる。
木々の梢や金麦の畑や、睡蓮の水面を通り過ぎるとき、はじめて風だ、と、風を見ることが出来るのです。マメヒコの哲学も、店員の明るい顔を抜け、珈琲カップにさざ波を立て、財布の小銭を鳴らし、長いテーブルを過ぎ、キッチンへと抜けていくとき、はじめて哲学は、ありありと目に見えてくる。
哲学は店内のディテールの集積として初めて見ることが出来る。
逆を言えば、哲学を連想させるだけのディテールがそろわなければ、それは哲学とは呼ばない。
無風は風と呼ばないように。
引用元:『哲学教室』
カフェマメヒコは、とても居心地のいいカフェだ。
目新しいものがあるわけではない。
逆にいろいろなものが削ぎ落とされて、そこにあるべきものだけが残っている。
その居心地の良さを作っているものは、言葉では表現ができないのだが、確かにそこにある。
そして、それが無くなったら、それはもうカフェマメヒコではない。
それが、マメヒコの哲学なのだ。
哲学を作るもの
人間にも、それぞれの哲学がある。
その人の核となるもの。芯にあるもの。それが哲学だ。
その人の生き方を作っているものでもある。
哲学を見る
井川さんが言うように、哲学は目に見えない。
哲学はディティールの集積としてしか、人の目に触れることはない。
つまり、その人の生き方を通してしか、哲学を知ることはできないのだ。
ある日、カフェマメヒコに行って、書き物をしようとしたときに、はっとした。
その時、私の筆箱に入っていたペンは、どこかでもらった知らない会社の社名入りのもので、好きではないが他にないのでなんとなく使っていたものだった。
マメヒコでこのペンを使うのがすごく恥ずかしかった。
このペンが私の哲学を反映していないものだから、哲学のある空間で使うことが躊躇われてしまったのだ。
哲学に向かって
私は、自分が大切にしているものに対してぶれない人に憧れる。
それは、哲学のある人、と言いかえられる。
私の中にも私の哲学は確かにある。
自分の行動がその哲学から外れると、周囲の人は何も思わなくても、とても居心地が悪い。
人の目を意識して着たくもない洋服を選ぶ時、それは私の哲学を表していない。
栄養素ばかりを気にしてそれほど食べたくないものを食べる時、それは私の哲学を表していない。
誰かの言葉を聞いて反射的に行動を変えてしまう時、それは私の哲学を表していない。
毎日、どれだけの哲学に反した行動をしているのだろう。
本当は知っている。
自分の哲学を目をそらさずに見つめ、探求に探求を重ねれば、私の選択が自然と私の哲学を反映したものになることを。
一つずつ妥協を止め、一つずつ哲学に合わないものを手放していく。それが哲学に近づく唯一の道だということを。
ぞっとするほど長い道のりのような気がする。
でも、一歩哲学に近づくたびに、自分の人生が居心地よくなっている。
哲学への道のりは遠くても、その過程に意味があるのを実感している。
もしゴールにたどり着かなくても、大丈夫。
私の歩いた道が、私の哲学になるのだから。