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モンゴルの人との距離と家畜との関係を考えて、自分自身を振り返る


モンゴルにて

モンゴルの首都ウランバートルにあるチンギスハーン空港に降り立ち、キャリーケースを引いて歩いていた。
出口を探して立ち止まったら、「チッ、チッ、チッ」と舌打ちのような大きな音が聞こえた。

音のした方を見ると、金属製の大きいカートを押したモンゴル人の年配の男性がこちらに向かって歩いてきていた。
キョロキョロしながら出口に向かっていた私は、どうやら彼の進路を塞いでしまったらしい。
そんなに大きな舌打ちをしなくても…と怯えつつ、すみませんの思いを込めて頭を下げ、急いでそこから離れた。

私がモンゴル人に最初に抱いた印象は、「怖い」というものだった。

馬や牛に掛ける声

モンゴル到着2日目。
テレルジという町で私は観光客向け乗馬体験をしていた。

現地の人が先導してくれる後ろを、馬に乗って付いていく。
6kmほどの道のりを1時間ほどかけてゆっくりと進む。

私が乗った馬は、途中、溝があるたびにそこを渡るのを嫌がった。
馬の足が止まると、先導のモンゴル人が「チョーッ、チョッ、チョッ!」と綱を引きつつ馬に呼びかける。

旅行の間中、ずっとガイドをしてくれていた日本語の話せるモンゴルの方に聞いてみたところ、「チョッ」は馬に対する「進め!」という声掛けらしい。

面白いことに、馬に対しては「チョッ!」だが、牛や羊など違う家畜には「チャッ」だか「チョカ」だか忘れてしまったが、家畜ごとに違う掛け声があるらしい。

馬に乗る私。(撮影:橋場みき子さん)

道を塞ぐ牛

実際にその掛け声を聞いた。
テレルジの草原の中を車で走っていたのだが、道(といっても草が踏み潰されただけの道なき道)に牛が立ち止まってこっちを見ていたのだ。
このままではぶつかってしまう。

私は心の中で「どけろー!」と叫んだ。
そのとき、モンゴル人の運転手は「チャッ、チャッ」(はっきり覚えていないので違うかも)と牛に声を掛けた。
言葉が通じたのかどうかは分からないが、牛はゆっくりと立ち去った。

くつろぐ牛

人との距離

モンゴルは人と人の距離が近い。
飛行機で隣に座ったモンゴル人は、私と彼の間にある肘掛にどんと腕を置き、あきらかに私の方に侵入している。
腕と腕が触れ合う。
日本人だったら隣の席の人と腕がぶつかったらお互いそっと距離を置くだろうが、彼は全く引かない。
彼の横顔をじっと見てみたが、彼は自分の領域を主張したいのではなく、ただ全く気にしていないだけのようなのだ。

少し離れたところに座っていた私の友人も、隣のモンゴル人の女性がどんどん脚を出してきて閉口したらしい。

家畜の群れの一匹?

モンゴル最後の夜にウランバートルのスーパーにいった。
スーパーには人がたくさんいた。
棚に何があるかひとつひとつ確かめながら歩く私は、次々と人にぶつかってしまう。

日本だったら「すみません」と言うか、何も言わなくても目を合わせて会釈くらいはするだろう。
ところが、こちらの人はぶつかられても全く無反応だ。
それどころか、私がぶつかっていくだけではなく、向こうからもぶつかってくる。
私だけでなく、あちこちでぶつかっているところを目にする。

このぶつかり合う様子を見ていたら、放牧されている山羊や羊を思い出した。
彼らは草を食みながら仲間にぼこぼことぶつかっていく。
だが、ぶつかり、押されても気にしない。
少しよろめきつつも気にせず草を食べ続ける。

まるで自分も家畜の群れの一匹になったような気がして、つい苦笑いが漏れた。

その瞬間、はっとした。
なぜ、私は苦笑したんだ?

苦笑いが出るということは、私は家畜を自分より下に見ているということだ。
下に見ている家畜と同列になったような気がしたから、苦笑いが漏れたのだ。

でも、私が家畜より立場が上だなんて、誰が決めたのだろう。

家畜と私、どっちが偉い?

あらためて思い返す。

テレルジの草原で牛が道の上に立ち止まったとき、私は「どけろ!」と思った。
私の邪魔をするなと思うから「どけろ!」という言葉が出てきたのだ。
私が自分を牛より上に思っているから、邪魔をするなと思うのだ。
しかし、牛からしたら自分の居場所に車がやってきただけである。
「どけろ!」だなんて偉そうなセリフだ。

あのときモンゴル人の運転手は牛に向かって「進め!」と声を掛けた。
立ち止まった牛にそこにいると危険だから進めと声を掛けたのだ。
「邪魔だからどけろ!」ではなく、「危ないから進め!」なのだ。

モンゴルの人に聞いた訳ではないけれど、もしかしたらモンゴルの遊牧民にとって、人と家畜はどちらが上とか下とかを決めるような関係ではないのかもしれない。
飼う側と飼われる側という明確な役割の区別はあるけれど、どちらが偉いというものではないのかもしれない。

人は家畜を草の生えているところに連れて行き、養う。
そして家畜は、乳や肉や毛皮を提供して、人を養う。
家畜は人がいるから安全に生きていけるし、人は家畜がいるから食料を確保することができる。
お互いに養い合うのが遊牧民における人と家畜の関係だ。

ところが、私は家畜を養っていない。
動物とは全く無縁の生活だ。
しかし、牛や羊の肉は日常的に食べている。
家畜は私を養っている。
それなのに、どうして私は自分のことを家畜より偉いと思っていたのだろう。

人を邪魔に思うこと思われること

冒頭に書いた、空港で私が舌打ちをされた話をもう一度考える。

なぜ、あんなに人とぶつかっても気にしないモンゴル人が、進路を塞いだ私に向けて大きな音で舌打ちをしたのだろうか?

あのとき相手のモンゴル人は大きな金属製のカートを押していた。
ぶつかって痛い思いをするのは丸腰の私の方だった。
あの舌打ちは「邪魔だな、ちっ」ではなく、「危ないから進め!」の合図だったのかもしれない。
ただ危険を知らせてくれていたのかもしれない。
それなのに私は「邪魔だ」と言われたと思って、嫌な感情を抱いてしまった。

私は、急いでいるときに改札口でもたつく人を見て邪魔だと思う。
そして、誰かに邪魔だと思われないように、一生懸命気を張っている。
それでもあちこちでもたついて睨まれたりする。
私にとって、邪魔だと思うことも邪魔だと思われることも日常的にあることだから、それをそのままモンゴルに持ち込んで、舌打ちされたときに邪魔と言われたと思ったのだ。

話したこともない他の人のことを邪魔だと思うなんて、私はどれだけ普段から驕っているのだろう。
もたつくだけで人を邪魔だと思い、自分もそう思われるなんて、どんなにギスギスした暮らしをしているのだろう。

そして、モンゴルまで来ないとこのことに気がつかないほど無自覚だった自分に驚いた。

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