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コロナが蔓延するこの世が、悪魔が蔓延する「真・女神転生」と重なって見えた


コロナで大きく変化した世界。
この感覚、過去にどこかで見たことあるなあと考えてみたら、「メガテン!」と思い当たった。

私が過去に夢中になったゲーム、「真・女神転生」(通称:メガテン)だ。
シリーズのものだが、特に初期の「真・女神転生」と「真・女神転生2」に激しく心を奪われた。

真・女神転生の世界観を知ることで見えてくる今のこの社会の問題点があるような気がするから、今一度、振り返ろうと思う。

ヒーホー!

「真・女神転生」あらすじ

「真・女神転生」の舞台は、199X年の東京。
平和だった日常に、不可解なことが発生していく。
井の頭公園で起きた殺人事件(※)もその1つだ。

気が付くと、街に悪魔が溢れている。

そして、東京では、更に大きな争いが発生していた。

※このゲームの発売は1992年。実際に井の頭公園で殺人事件があったのはその2年後の1994年。
実際の事件は未解決だが、両者には因果関係はないと思われる。

自衛隊によるクーデターとアメリカによる鎮圧

自衛隊がクーデターを起こし、東京を制圧した。
クーデター首謀者のゴトウ陸佐(※1)は、演説をする。
「世界の文明は腐りきっている。差別、貧困、戦いが世界を覆う今、我々は悪魔と呼ばれる古の神々を目覚めさせた。」

ゴトウの望みは、日本を壊滅させようとするアメリカ軍の陰謀から日本を守り、神々と人類が共存するユートピアを実現することだ。

一方、米国大使トールマン(※2)は、アメリカ軍を出動させてゴトウ率いる自衛隊と交戦を目論んでいた。
トールマンが目指しているのは、神に選ばれし者が神の教えに従い、秩序を守って暮らす千年王国を東京に実現することだった。

そして、ついにアメリカは、大陸間弾道ミサイル(※3)を発射し、東京を壊滅させる。

※1:20世紀のゲームの限界として、漢字表記は使われず「ゴトウ」とカタカナ表記がされているが、漢字で書くと「五島」であろう。
このゴトウは、作家である三島由紀夫がモデルとなっている。
実際の三島は、自衛隊にクーデターを促したが、失敗し自決した。
なお、三島は、文化概念としての天皇を支持したが、その具体的なイメージとして「日本武尊(やまとたけるのみこと)」を挙げたと言われている。

※2:公式見解では、トールマンにはモデルがいないとされている。
しかし、戦争を終わらせるための手段として原爆を落とすことを選択したアメリカ合衆国第33代大統領トルーマンを思い出さずにはいられない。

※3:「真・女神転生」の制作会社はアトラス。
アメリカで最初に配備された大陸間弾道ミサイルの名もアトラス。

2つの宗教

それから30年。
荒廃した東京には、2つの宗教が台頭していた。

一つは、メシア教。
「信じるもの皆、救われる」と謳い、神が統治する千年王国を品川に建設中である。

秩序を重んじ、法律で全てを管理しようとしている。
法を守り、秩序と平和を保つことが重要であり、個人の自由はない。

服装も決まったものがあり、白地に青いラインの入ったもので、階級や身分が服装からわかる。
 

もう一つは、ガイア教。
「生きる者はいつか死ぬ。形あるものはいつか壊れる」と謳い、自然と一体化することを重要視している。

秩序や階級に囚われず、差別や区別もせず、管理もせず、全てのものと共存しようとしている。
自由はあるが秩序は存在していないため、強い者は生きやすいが弱い者は価値がないものとして扱われる。

メシア教とガイア教、どちらが支配する世界を目指すのか、もしくは両方の宗教を否定していくのか。
主人公の選択でゲームは進んでいく。

善?悪?

メシア教の信者には穏やかな口調で話すものが多く、ガイア教の信者にはヤクザやチンピラがいるため、メシア教が善でガイア教が悪だと思われやすい。

だが、善悪はそんなに単純に切り分けられるものではない。

メシア教の世界は、秩序が保たれた平和な世界だ。
しかし、それは、がんじがらめに管理されているから保たれている平和だ。
メシア教の教えに従わないものは人とは扱われない、と言っても過言ではないほどの厳しい管理がされている。
なにせ、秩序を守るためであれば、大陸間弾道ミサイルを放って東京を壊滅することも正しい行いとされたのだ。
メシア教には全知全能の神をトップとした階級制度があり、神に近い立場であるほど優遇される。

一方、ガイア教には自由がある。
しかし、それは、力で勝ち取らざるを得ない自由である。
力のない弱いものは価値がない存在として扱われるほどの、無秩序な混沌とした状況である。
なにせ、暗殺者があちこちに潜み、命を狙われることすら日常茶飯事なのだ。
実力至上主義であり、力を持つ者がのしあがっていく。
 

メシア教徒が大切にする平和。
平和と聞くと、いいものと感じる人が多いだろう。

ガイア教徒が渇望する自由。
自由という言葉も、いいものと感じる人が多いだろう。

しかし、平和の裏にも、自由の裏にも、厳しい現実が存在している。

今の世の中

真・女神転生では、街中に悪魔が溢れ出した。
今のこの世では、世界中にウィルスが広がっている。

コロナウィルスはまだまだ未知の存在のため、どう対応するのが正しいのか、誰にもわからない状況だ。

ただ、わかるのは、盲信して極端に走ることの怖さだけだ。

規則を守り、秩序を求めるメシア教徒は、法律に依存をしすぎて、善悪の判断を法律に委ねてしまった。
法を守ることが善で、法を犯すことが悪の世界では、個々人の事情は考慮されず、ただ法のみが行動規範となる。

その世界では、法を作る人が絶対的な権力を持つ。
法を作る人が善と言えば善だし、悪と言えば悪となる世界では、自分に都合のいい法律を作ることができる人が絶対的な権力を持つ。
その状況では、権力交代が起きにくい。
権力交代が起きにくいように法を作ってしまえば、動きを封じることができるからだ。
このような世界では、法を作る人にすり寄ろうとする人が生まれるのも当然の流れである。
 

実力至上主義のガイア教では、力があれば自分の主張を通すことができ、思いのままに生きることができる。
力を持つことがこの世を生き延びるための手段で、強さだけが正義だ。

そこには対話は存在しない。
殴り合い、殺し合うことが、自分の主張を貫くための手段となる。
救いは、人を力で支配するのも自由であるが、人を救う自由も存在することだ。
しかし、人を救うためにも、力が必要となる。
 

今の世の中、メシア教徒もガイア教徒も、どちらの存在も感じる。

いかなるときもマスクを!いかなる場合も移動の禁止を!と規則を求める人がいる。
自粛せずにコロナにかかった奴には治療を受けさせるな!と言う人もいる。
規則を守らない人は救わずに見捨てるのが当然とするその考え方は、メシア教徒そのものだ。

コロナはただの風邪だ!コロナなんて気のせいだ!と元通りの経済活動をすべきと説く人もいる。
今の現在では、力とはお金になるだろう。
転売するために、マスクやうがい薬を買い占める人もいる。
お金のない人にマスクが行き渡らないのを当然とするその姿勢は、ガイア教徒そのものだ。

どんな教義であれ、盲信すると自分を見失う。

規則を求めすぎる人は、規則を守らせることに熱心となり、なぜその規則があるのかを忘れてしまう。
盲目的に規則を守る人は、規則を求め、規則を作る人の操り人形となる。

力を求めすぎる人は、力を高めることに夢中になり、その力をどう使うかが疎かになる。
盲目的に力を崇める人は、力を求め、力がある人に媚びへつらい操り人形となる。

人間は0か100かで割り切れるものではない。
自分が必要とする規則を自分の中に持ち、自分が必要とする自由を必要な分だけ手に入れる。

必要とする規則も自由も、人それぞれで違うのが当たり前だ。
それで、いいのだ。

ただし、自分が必要とする規則や自由を知るためには、自分の状況を客観的に知る必要がある。
自分を客観的に知ることは難しい。

人間は誰しも自分の選択に不安を感じる。

自分を客観的に知ることを放棄して、選択の不安から逃避するには、他のものに頼るのが一番手っ取り早い。
その頼り先が、ある人にとっては規則で、ある人にとっては力となる。

自分を放棄して頼ってしまったら、あとは操り人形になるだけだ。

狂信者にならないために

真・女神転生では、主人公がメシア教寄りになったりガイア教寄りになったりと変化していく。
その変化の理由は主に2つ。
誰を仲間にするかと、自分がどういう選択をするかだ。

秩序を愛するものを仲間にするとメシア教寄りになり、混沌を愛するものを仲間にするとガイア教寄りになる。
普段、自分が誰と一緒にいるのか次第で、自分の意識が変わっていくのだ。

そして、日々の選択も、自分の意識に影響をもたらす。

だから、次の2つの問いが重要となる。

普段、一緒にいる人は、どういう人だろう?
日々の選択は、自分の意思でしているだろうか?

もし自分が狂信者になりたくなければ、この2つの問いを常に自分に問いかけるといい。

自分の周りが狂信者ばかりなら、自分も狂信者になっていく。
自分の意志ではなく、他の人の希望に沿うための選択を無意識にし続けていけば、やはり狂信者になっていく。

この正解のない混乱した世の中だからこそ、自分自身を見失わないことが大切なのだ。
それが一番難しいことだったとしても、自分を見失わずにいることが必要なのだ。

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