教えることの目的は教えることではない。何のために教えるかのゴールをぶらさないことが大切
プロの仕事に触れた日の話
このブログの開設はプロの手を借りた
このブログを立ち上げるとき、ブログ開設の講習に行った。
WEB上にあらゆる情報が落ちている時代だから、検索を駆使すれば自力で開設することも可能かもしれないが、時間と安心を手に入れるためプロの力を借りたのだ。
随分後にプロの仕込みに気付いた
ブログを開設してしばらくたったある日、自分のブログにログインができなくなったことがある。
どこからログインすればいいのか、そのURLすら分からなくなった。
検索しても分からない。
すがる思いで、ブログを開設した時に使った資料を引っ張り出した。
開いてみると、そこにはちゃんと、ログインをするときのURLが私の筆跡でメモされていて、重要マークが付いていた。
教えられたときは訳が分からないまま、ものくろさんに言われた通りに書き写したのだろう。
どのような説明を受けたのかは既に全く記憶に残っていない。
でも、後から必ず必要になる情報だからと、ものくろさんはあらかじめ教えておいてくれたのだ。
プロの「教えること」には軸がある
教えることの目的は?
教えたら教えっぱなし、ということは、よくある。
例えば業務の引き継ぎを受ける時、最初は一通り丁寧に教えてもらっても、そのあと質問をしたら面倒くさそうに「これ、あのとき説明したよね?聞いてなかった?」と切り捨てられてしまった経験はないだろうか。
引き継ぎを受けた時は「分からなかったら質問してね」と言われていたのに、いつの間にかその言葉が無かったことになっている場合がよくある。
このとき、教える側は「教えること」が目的になっている。
一度教えてしまえば、相手が理解したかどうかは関係なく、目的を達成したことになる。
しかし、教えることの目的は、そこではないはずだ。
前述のブログ開設講習の場合は「私が一人でブログを運営できること」が目的だし、引き継ぎの場合は「相手がその業務をできるようになること」が目的だろう。
この意識があれば、質問をされた時に、「これ、あのとき説明したよね?」と切り捨てることはできないはずだ。
(もし同じことを3回質問されたら、教えられる側に理解する気がないか、教える側が理解させきれていないか、他の解決すべき問題が発生している可能性が高い)
教えるプロの仕事ぶり
冒頭に書いたブログ開設の講習の例では、後日、私が質問しそうなことの答えを、あらかじめ仕込んでくれていた。
最初に教えても、私が全てを理解し記憶することはないということを見込んで、どこでつまづくかを予想して答えを用意していたのだ。
自分がそれを学んだ時に、どこでどのようにつまづいたのか、分析をしているのだろう。
誰かに教える時にその分析結果を活かして、反応を見て、精度を高めているのだろう。
もし、教えられる側がつまづかないで進んだら、その準備は無駄になってしまう。
しかし、教えることの目的は、生徒が一人でブログを運営できることだ、という軸がきちんとあるからこそ、無駄な準備も厭わずできるのだと思う。
これがプロの仕事だと唸らされた。
あらためて「教えること」の目的を考える
小さなことまで含めれば、誰かに何かを教える機会は多くある。
教えることの目的がぶれていなかったか、胸に手を当て考えてみる。
「教えること」が教えることの目的になっていないか。
「知識を誇示すること」が教えることの目的になっていないか。
「自分の立場が上だと示すこと」が教えることの目的になっていないか。
教える、と一言でいっても、いろいろな目的を込められてしまう。
教えること全てにおいて、つまづきポイントを先回りして準備することは難しいが、せめて軸だけはぶらさずにいたい。