聖書が認めるお金の稼ぎ方。~お金を稼ぐことに罪悪感がある人へ
聖書はお金持ちが嫌い?
聖書では「お金持ちは糾弾されるべき存在」であり、「お金は持ってはいけないものとして扱われている」と思っている人はいないだろうか。
例えばこういう一説がある。
[box class=”box2″]「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」(マタイによる福音19.24)[/box]
こう聞くと、「ああ、やっぱりお金は良くないものなんだ。汚らわしいものなんだ」と思ってしまうのも無理はない。
でも、こうも言われていると知ったら、驚くのではないだろうか。
[box class=”box2″]「持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」(マタイによる福音25.29)[/box]
どういうシチュエーションでこの言葉が使われているかを見てみよう。
聖書にみる2つの「稼ぐ」話
聖書にはお金を稼ぐことをテーマにした話がいくつかある。
その中の2つを見る。
マタイによる福音書
イエスが話したとされる有名なたとえ話の一つに、タラントの話がある。
このタラントは当時のお金の単位であり、現在の価値に換算すると、1タラント=6000万円と言われている。
マタイによる福音書に書かれているタラントの話は、次のような話だ。
5タラントは3億円、2タラントは1億2千万円、というのを頭に入れて読んで欲しい。
マタイによる福音書の25章14〜30
主人がしもべたちに能力に応じて財産を渡して旅に出た。
5タラントを受け取ったものは商売をしてさらに5タラントを稼いだ。
2タラントを受け取ったものは商売をしてさらに2タラントを稼いだ。
1タラントを受け取ったものは地中に埋めておいた。
主人は5タラントを稼いだものに「良い忠実なしもべよ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。」と言った。
主人は2タラントを稼いだものに「良い忠実なしもべよ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。」と言った。
主人は1タラントを地中に埋めておいたものに対し「悪い怠惰な僕よ」と怒った。「それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。」
そして、その1タラントを取り上げ、追い出してしまった。
取り上げた1タラントを、5タラント稼いだものに渡して、主人は言った。
「持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」
ルカによる福音書
似たような話がルカによる福音書にも出ている。
ミナの話だが、このミナも当時のお金の単位だ。
1タラント=60ミナらしいので、1ミナは100万円ということになる。
よく似た話なのだが、マタイによる福音書に書かれた話と大きな違いがある。
ルカによる福音書の19章11〜27
ある人が10人のしもべたちに1ミナずつ渡し「商売をしなさい」と申し渡して旅に出た。
あるものは10ミナを稼いだ。
あるものは5ミナを稼いだ。
あるものは布に包んでしまっておいた。
主人は10ミナを稼いだものに「良いしもべよ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、十の町を支配させる」と言った。
主人は5ミナを稼いだものに「五つの町を支配させる」と言った。
主人は1ミナをしまっておいたものを「悪いしもべよ」と怒った。「では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに」
そして1ミナを取り上げ、10ミナを稼いだものに渡した。
主人は言った。
「持っている人は、なお与えられ、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。」
2つの話から分かること
タラントは、英語のtalent(才能)の語源にもなっており、この話は、お金の話ではなく、神から与えられた才能を活かしなさいという話だと語られることが多い。
前後の文脈から言ってもその通りなのだが、それを3億円もの大金を稼ぐ話に例えているところがポイントである。
もしお金を稼ぐことが悪いことであれば、3億円もの大金を稼ぐことはよっぽどの罪である。
わざわざいい話の例えに使わないだろう。
しかし、この例え話ではお金を多く稼ぐことはいいこととして扱われている。
神の言葉の代弁者であるイエスは、お金を稼ぐことを否定するどころか、肯定的に捉えていることが分かる。
それぞれの例え話
タラントの話とミナの話には、大きな違いがある。
タラントの話
タラントの話は、その者の才能によって、渡される金額が違っていた。
そして、5タラントもらって5タラント稼いだ者も、2タラントもらって2タラント稼いだ者も、主人から同じ褒め言葉を受けている。
ここから分かることは、持っている能力をフルに発揮することが大切だということだ。
持っている能力によって稼ぐ金額が違っていても、評価は変わらない。
持っている能力をフルに発揮して稼ぐことができれば、大きなものを手にすることになる。
その大きなものを元手にさらに能力を発揮すれば、さらに大きなものを得ることになる。
今は2タラントしか稼ぐことができなくても、それは次に5タラントを稼ぐための前段階であるだけなのだ。
だから、それによって評価に差がつくことはない。
ミナの話
一方で、ミナの話は、タラントとは違い、全員が同じ金額をもらっている。
そして、10ミナ稼いだ者は10の町を手にし、5ミナ稼いだ者は5つの町を手にした。
多く稼いだ者が多く褒められたのだ。
与えられたものが同じであれば、より多く稼いだものが、より評価される。
まとめ
お金を稼ぐことが一概に悪いことではない。
あらためて、何を聖書が認めて、何を認めていないかを見てみよう。
聖書が認めていること
上記から分かるのは、聖書においては「自分の能力をフルに発揮して、たくさん稼ぐこと」が奨励されているということだ。
能力を発揮して稼ぐといっても、聖書では、「徴税人」という職業は罪人扱いされている。
当時の「徴税人」は今の税務署とは違い、決められた税額より多い額を徴収して、その差額を懐に入れる人だった。
人を言いくるめて高い金額を徴収する能力を持つ徴税人もいただろうが、こういう能力の発揮は認められない。
聖書が認めているのは、人を騙すのではなく真っ当なやり方で稼ぐことなのだ。
聖書が認めていないこと
タラントの話でもミナの話でも、お金を使わず貯め込んでいたものが罰せられる。
両者とも「せめて銀行にでも預けておけば」とも言われている。
これは想像だが、商売に失敗してお金を減らしてしまっても、ここまで激しく罰せられはしなかったと思う。
なぜなら主人の怒りの理由が、何もせず貯め込んでいたことに対してだからだ。
銀行にでも預けておけば、他のお金を必要としている人のところに貸し出すことができて、その対価である利息も受け取ることができた。
しかし貯め込んでおいては、何も生み出さない。
ここが激しい怒りのポイントなのだ。
冒頭にあげたラクダの話は、イエスがとある青年と話したあとに弟子に向けて語った言葉だ。
その青年は、「自分は戒めを守っているが、永遠の生命を得るために他に何が足りないか」とイエスに聞いた。
イエスは答えた。「帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう」
それを聞いて、たくさんの財産を持つ青年は、悲しみながら去っていった。
そこでイエスは言うのである。「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」
「売り払い」と言われたということは、この青年は財産を物に変えて貯め込んでいたということだ。
ここでいう、富んでいる者やお金持ちとは、財産を貯め込んでいる人のことなのだ。
財産を自分のために貯め込んで使おうとしない人が神の国に入るのは難しいのである。
聖書はお金を稼ぐことを禁じてはいない
お金を稼ぐことに対して、罪悪感を持つ人は多いだろう。
お金持ちは悪い人であるというイメージを持つ人もいるであろう。
しかし、2000年以上受け継がれた聖書には、お金を稼ぐことは肯定的に記されている。
人を騙してお金を巻き上げるようなことさえしなければ、稼ぐことはいいことなのだ。
そして稼いだお金は不必要に溜め込まず、きちんと次に流すこと。
これが大切なことなのだ。
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