私が育った町には球場があった
在りし日の球場
私が育った町には、球場があった。
正式名称は「宮城野原公園宮城球場」。
略して「県営宮城球場」とも呼ばれていたけれど、近所に住む私たちは「宮城野球場(みやぎの・きゅうじょう)」と呼んでいた。
住宅街にあったその球場は、子供たちの格好の遊び場だった。
球場の外周で犬の散歩をしたり、四つ葉のクローバーを探したり。
でもやはり、球場の中に入れる日は特別だった。
年にほんの数回のプロ野球の試合の日。
夕方、試合が終盤になると係員がいなくなる。
子供たちは一斉に外野の芝生席に転がり込んだ。
ガラガラの外野席で応援歌を歌うと、応援団の人たちが飴をくれた。
それが嬉しくて、野球のルールがよく分からないながらも、大声で歌った。
「レ・オ・ン!レ・オ・ン!レーオーンー!」
中でも特別なのは、ナイターだった。
2年に1度、みちのくシリーズと銘打って、読売巨人軍が仙台にやってきた。
それはもう、事件だった。
何日も前から、子供たちはソワソワしていた。
誰かがチケットを入手したなら、その日のうちに学校中に噂が広まった。
試合に行けることになった子供は、皆から崇められ鼻高々だった。
巨人戦当日は、球場に行けない子供もワクワクした。
テレビに、私たちの宮城野球場が映るのだ。
テレビで見る宮城野球場は、実物よりも芝生が青く見えた。後楽園にも負けないくらい立派に見えた。
巨人戦の日、私は、家の窓から宮城野球場を見つめていた。
当時、高い建物が無かったため、マンションの7階の窓から、何も遮るものはなく球場が見えた。
眩く光るカクテルライト。
暗闇の中に浮かび上がる球場は、きらめいていた。
あの中で楽しいことが行われていると思うと、いくら見ていても見飽きなかった。
球場のざわめきや歓声が聞こえてくるような気がした。
球団がやってくる
高校を卒業と同時に地元を離れた私の目に、再び宮城野球場が飛び込んできたのは、2004年のことだった。
プロ野球界は近鉄とオリックスの球団合併で揺れていた。
ライブドアが新規参入を名乗り出て、楽天が対抗馬として手を挙げた。
そして、本拠地を宮城県に置くという案が出てきたのだ。
新規参入球団は楽天に決まり、県営宮城球場…私たちの宮城野球場…が正式に本拠地に決まった。
多くのテレビ局が宮城野球場に駆けつけた。
「椅子が割れています!」
「トイレも…これはちょっと…」
施設の老朽化ぶりが面白おかしくレポートされ、スタジオのタレントたちは映像を見て笑っていた。
私は、泣いた。
思い出の地にズカズカと入りこみ、指を差して笑う人々に、泣いた。
私の宮城野球場は、眩く輝く美しい場所なのだ。
ワクワクすることが行われている、憧れの場所なのだ。
悔しかった。噛み締めた唇が痛かった。
変わりゆく姿
フルキャストスタジアム宮城と名前を変えた球場に、私が初めて訪れたのは、楽天創設1年目の9月だった。
外野席に入るまでのスロープや芝生に敷き詰められるレジャーシートは宮城野球場時代と変わっていなかった。
ただ、巨人戦でもないのに、お客さんがたくさん入っていた。
大勢のお客さんと歌った応援歌は、ベニーランド(仙台の子供たちが大好きな遊園地)のテーマの替え歌だった。
2011年、あの大きな津波が来た年も、球場に行った。
4月29日、いつもの年よりも随分遅い本拠地開幕戦。
球場の中は再会の喜びに満ちていた。
「絶対に見せましょう、東北の底力を!」という嶋基宏のスピーチを心に刻み込んだ。
変わるもの変わらないもの
球場は何度も何度も改修され、今ではもう、宮城野球場時代の面影はほとんどない。
それでも目を閉じると、カクテルライトが輝く球場が浮かび上がる。
聞こえるはずのない歓声が、今も脳裏に響き渡る。
今、Koboパーク宮城と呼ばれるようになった球場では、7回裏の攻撃の前に、子供たちがジェット風船を拾い集める姿が見られる。
落ちてきた風船を10個集めると、シールと交換してもらえるのだ。
見た目や名前が変わっても、球場が子供たちの笑顔が溢れる場所であることに変わりはない。
今は野球よりも風船集めの方が楽しい子供たちも、大人になるにつれいろいろな思い出で球場を満たしていくだろう。
球場は、今の子供達にとっても、かつての子供達にとっても、特別な場所なのだ。
球場には、笑顔も涙も、たくさんの感情が詰まっている。
今日の記事は、広島出身の野球少年だった友人の記事に触発されて書きました。
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