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しずかみちこ
Gallup認定ストレングスコーチ
ストレングスファインダー(クリフトンストレングス)の専門家として、個人やチームが「強み」を活かして最大の成果を生み出すためのコーチングと研修をしています。

リクルートスタッフィングで経理したり、レアジョブの管理部門立ち上げたり、ブラック企業に入ったり、上司の横領見つけて辞めさせられたり、人の会社2つ作ったりと波乱万丈な職歴の後、独立して今に至ります。

投資と経理スキルでお金をデザインし、ストレングスファインダーで強みを活かしたら、人生が楽しくなりました。

趣味は野球観戦と美味しいものを食べること

収集心・最上志向・戦略性・未来志向・分析思考
ストレングスファインダーのnote
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正義感による怒りで拳を振り上げる人の胸の中にあるもの、私の場合

ある日、私は怒った

その時、私は地下鉄に乗っていた。
骨太のセミナーを受けた直後で、ぐったり疲れていた。
始発駅から乗ったので、座席に座れた。
最近買ったばかりの面白い本を読んでいた。

列車が減速し始めた。
次は、どこの駅かな?
顔を上げて確かめた。
溜池山王か、降りる駅はまだまだ先だな。

本に視線を戻そうとしたとき、私の視界の片隅に入ってきたものがあった。
杖だ。
私の斜め前に立っている女性が、杖を持っている。
年齢は私と同じくらいだろうか。
杖を持つにはまだ早い年齢だ、足が悪いのだろうか。
立っているのは辛いかもしれない。

列車がちょうど駅に止まった。
私の隣の人が立ち上がった。
杖を持つ女性の目の前に座っている人だ。

ああ、よかった。
杖の女性が座れることに安堵したその瞬間、思いがけないことが起こった。
杖の女性の隣に立っていた人が、杖の女性を強く肩で押し、杖の女性がよろけた隙に空いた席に座ったのだ。

杖の女性は、列車に乗ってきた人に押されて、私の前にやってきた。
私の中には、激しい怒りがこみ上げていた。

怒りの行き先

どうしようか?
この日、私はセミナー帰りで、頭は疲れていたけれど身体は疲れていない。
足元はスニーカーなので、立っていることには全く問題ない。
読んでいる本は文庫本なので、立ちながら読むことが苦ではない。
列車はもうすぐ発車する。
動いている列車の中で体勢を変えることは、杖の女性には困難だろう。
決断するなら今しかない。

これだけのことを0コンマ数秒のほんの僅かの間に考えて、思い切って立ち上がった。
杖の女性は座ってくれた。

立ち上がった私は、文庫本を開いた。
杖の女性の隣に座る、例の女性を肩で強く押した人が私を睨みつけてきたが、これは無視していいだろう。

本を2〜3行読んだ時に、自分の中から怒りの感情がきれいさっぱり消えていることに気がついた。
ついさっき、あれほど強い怒りが私の中にあったのが嘘のようだ。

これは何故だろう?

いいことをした気になった自己満足で怒りが解決した?
いいや、そんな単純なものではないはずだ。
 

本当の怒りの原因

何故、怒りは消えたのだろうか。
それを考えるためには、私が何に怒っていたのかを知る必要がある。

私は、杖の女性を肩で押した人に対して怒っていた。
それは、女性をよろめかせたという行為に対して怒っているのだと思っていた。

でもそれなら、席を譲ったくらいで怒りは消えないはずだ。
私が席を譲っても、この人が女性を押したという事実は消えない。
それなのに怒りが消えたということは、これが怒っている理由ではないのだ。
 

次に、私が立つ羽目になったから怒ったのだろうかと考えた。
杖の女性は、押されてよろめかなければ、私の隣の空いた席に座っていたはずだ。
そうしたら、私も座ったままでいられた。

しかし、それなら、立っている今こそ怒りが募るはずだ。
実際は、立ち上がるまでが怒りのピークで、立ち上がってからは怒りが収まっている。
立たされたことに対する怒りではないようだ。
 

それでは何に対して怒っていたのだろう。
怒っていた時に、私がやっていたことを見れば、怒りの原因が分かるかもしれない。
私がやっていたこと、それは「悩むこと」だ。

最初に杖の女性が目に入った。
大丈夫かな?と思った瞬間に隣の席の人が立ち上がり、私は安心した。
ここまでは悩んでいない。

その時、女性が肩で押されてよろめいた。
怒りがこみ上げてきたのは、押された女性が更に押されて私の前に来てからだ。
この時、私は立つべきか、立たざるべきか、悩んでいた。

そして、結局立ち上がった。
立ち上がったことにより悩みは解消された。
それは怒りが消えたタイミングと同じだった。

どうやら私は、悩まなければいけない状況に怒りを感じていたようだ。
杖を持った人を押すという行為に怒っていたのではなく、そのことにより私が悩まなければいけなくなったことに怒っていたのだ。
 

目次

正義感の裏にあるもの

最初、私は、私の正義感が怒りをもたらしているのだと思った。
椅子に座りたいからといって杖を持った人を押すなんて、人道的にありえない!
こう感じた私の正義感が怒ったのだと思った。

しかし、実際は違った。
人道的かどうかという正義感とは無縁だった。
更に、立つという望んでいない行為をさせられることへの怒りでもなかった。
ただ単に、悩まなければいけなくなったことへの怒りだった。

小さい人間だな、と自分に苦笑いをした。
きっとこれまでも、こういうことはあっただろう。
自分では正義感だと思っていても、実際はとても小さな極私的な平和が犯されたことへの怒りに過ぎなかった。
こういうことが他にもあったのではないだろうか。

いや、もしかしたら、世の中で拳を振り上げている正義感の中にも、各々の極私的な平和が犯されたことへの怒りが多分にあるのかもしれない。

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