人は肩書から学ぶのではない。共感から学ぶ生き物である
いいこと言ってるつもりなのに…
部下や同僚にいろいろ教えているのに、相手の反応がいまいちなときがある。
自分では気分よく「いいこと」を話しているつもりなのに、相手は早く話を終わらせたそうな素振りまで見せる。
振り返ると、このとき私の心の中には「教えてあげたい」という思いが生まれていた。
「教えてあげたい」という気持ちには、「できるから教えてあげる私」と「できないから学ぶべきあなた」が潜んでいる。
なんて上から目線な発想なのだろう。
これでは何も伝わらないのは当然だ。
解決のヒントを伝えたい…
人に教え伝えるシチュエーションには二種類ある。
一つは、表面的なものである。
例えば、作業の手順を型通りに教えるといったもので、教えるというより「情報を伝える」といったものだ。
もう一つは、心の奥底に入り込み、この先の生き方までが変わってしまうようなものである。
例えば、仕事術や人間関係といったものがそうで、一度身につけたら、この先の人生に影響を与え続ける。
作業の手順といった答えが決まっているものは、知ってる私が知らないあなたに教えるのは自然なことだ。
しかし、仕事術や人間関係といった、答えが人の数ほどあるものについては、「できる私とできないあなた」という図式は不自然極まりない。
とはいえ、目の前に悩んでいる人がいて、自分は解決のヒントを持っている場合、伝えたいと思うのも自然な気持ちだ。
どのように伝えれば良かったのだろうか。
大切なのは「共感」
人は共感から学ぶ
人が学ぶとき、権威や肩書きから学ぶのではない。
相手ができる人だから学ぶのでもない。
すごい人のありがたいお言葉でも、右から左にスーッと抜けていくことは日常茶飯事だ。
人は、肩書きからではなく、共感から学ぶ生き物なのだ。
表面的な学びであれば、共感は必要ない。
しかし、心の奥底に入り込む深い学びは、心を開いていないと入ってこない。
心が開くのは、共感が生まれたときだ。
権威や肩書きでは人の心は開かない。
それなのに、人は誰かに何かを伝えたいと思うとき、「できる私(同じような悩みを克服した私)がこうやったらできたから、あなたも同じようにしてみたら」という伝え方をしてしまう。
言われる方としては、ただでさえ悩んで弱っている時に「できる私vsできないあなた」という図式を持ち出されたら、自分がダメと言われているのかとうんざりして、心を閉ざしてしまう。
その心理状態で言われた言葉が、心に響く訳がない。
共感が生まれるとき
問題にぶち当たって、悩んで、解決法を見つけて、解決したとする。
この一連の流れは「問題」「気づくまでの過程」「解決方法」というステップを踏む。
同じ悩みを抱えている人を救いたいと願うとき、人は「解決方法」を教えようとする。
しかし、共感を呼ぶことができるのは「問題」の部分である。
どのような問題が起きたのか、そして問題の渦中でどのように感じていたのか、だ。
相手が悩んでいるということは、怒り、悲しみ、悔しさ、寂しさ、困惑といった感情が、相手の心の中に渦巻いているということだ。
この感情を共有したとき、共感が生まれる。
共感が生まれたときに、はじめて相手に「解決方法」を受け入れる心の準備ができる。
しかし、答えが1つではないものに対し、この解決方法が絶対正しい、という態度で教えても、相手は首を傾げてしまう。
「自分が同じ状態だったとき、こういう解決方法を取ってみた。そうしたら、こうなったよ。」という情報を共有するだけでいい。
情報の中に学ぶべきものがあれば、人は勝手に学びとる。
いちいち「教えてあげる」という態度を取る必要はない。
は?黙って言うこと聞けばいいんだよっ!
共感なんて面倒臭い。役職が上の私の言うことを聞いていればいいのだ。
そういう考え方もあるだろう。
実際、その態度で、言うことを聞いてくれる人もいるかもしれない。
この考えの落とし穴は2つある。
1.自分がすごい人、できる人で居続けなければいけない
自分の方が役職が上だ、自分の方ができるのだ、自分の方がすごいのだ、だから皆、言うことを聞け。
もしこれが正しいならば、逆に言うと、自分の方が役職が上で、できる人間で、すごい人間でいないと、誰も言うことを聞いてくれないということだ。
それなので、こういう思考を持つ人は、役職を誇示したり、自分の方ができるというアピールをするようになる。
自分を実物以上にすごい人間だと見せるのは、とても疲れる。
そして一度、自分を大きく見せると、なかなかそこから降りることができない。
自分の方が立場が上だとアピールするために不必要に奢りまくったり、役職にしがみついたり、他人を蹴落として自分が上にいるように見せたり、そういうことをしてしまうようになる。
しかも残念なことに、こういう情けない態度は、分かる人にはあっさりバレる。
2.肩書き信者しか味方にならない
自分の方が役職が上なのだから言うことを聞けと思っているなら、何も言わず「はい!」と素直に言うことを聞く人をかわいく感じるだろう。
しかし、相手は、自分の肩書きに対して従順なだけで、自分そのものには興味がないということを見落としがちである。
肩書きなんて、所詮肩の上に乗っているだけのものだ。振り払えば落ちる。
自分が肩書きを失ったとき、従順だった相手は、さっさと別の肩書きがある人に乗り換えるだろう。
肩書きに言うことを聞かせていたのは自分なのだから、当たり前のことである。
私の経験から言うと、肩書きによって態度を変える人間に面白い人はいない。
人を表面的なものでしか判断しない人間は、本人も中身がない薄っぺらい人間であることが多い気がする。
肩書きに物を言わせて言うことを聞いてくれる人間は、こういう薄っぺらい人間だ。
薄っぺらい人間を周りに侍らせて、いったい何が楽しいのだろう。
共感による結びつきは強い
打って変わって、共感による結びつきは強い。
肩書きなどを取っ払い、人間として気持ちを分かり合える人ならば、相手の肩書きなどは関係なく信頼関係を築くことができる。
信頼関係がある人は、もし失敗したり、肩書きを失うようなことになっても、人として味方になってくれるだろう。
自分を実際以上に大きく見せる必要はないし、肩書きに拘る必要もない。
無理をする必要はないのだ。
誰かに何かを伝えたいとき、自分が相手の上に立つ必要はない。
過去の自分の失敗を隠す必要も全く無い。
自分の過去の迷いや葛藤をさらけ出す人の言葉こそ、相手に響くのだ。