価値観は人それぞれ違っていい。既存の価値観は既に壊れ始めているのだから
既存の価値観が壊れ始めている
続々と既存の価値観が壊れ始めていると感じている。
2018年は、この流れがもっと加速していくだろう。
強い者の暴力
既存の価値観の崩壊は、いろいろなところに噴出している。
大相撲の日馬富士問題もそうだ。#metooもそうだ。
これまでは、立場の強い者が肉体的・精神的暴力を振るっても、弱い者は我慢しなければいけなかった。
傷つく方がいけない、とまで言われもした。
既存の権力構造の中で生き延びていくには、弱い者が泣き寝入りをするしかなかった。
でも、これからは違う。
「暴力は人を傷つける行為だ」と言っていいのだ。
もう、自分の傷を無かったことにする必要はない。
そこまでして既存の枠組みに自分を押し込める必要も、既存の枠組みを死守する必要もないのだ。
お金
お金についての価値観もどんどん変化している。
物々交換から始まった取引は、金(GOLD)という誰もが価値を認めるものを決めることで、体系化し始めた。
金(GOLD)では取引に不便なため、金(GOLD)と交換できるお金(CASH)を作り出して、利便性が高まった。
そのうちお金(CASH)そのものに価値が移り、金(GOLD)との兌換性が無くなった。
これがここまでの流れだ。
そして、今は、お金(CASH)は、データに移り変わっている。
銀行の口座残高、クレジットカード、各種電子マネー、そして仮想通貨。
銀行やカード会社や取引所の間をデータが行ったり来たりすることで、商品やサービスの受け渡しが行われている。
金(GOLD)という現物から始まった貨幣経済は、目に見えないデータに置きかわりつつあるのだ。
ライフスタイル
そして、人のライフスタイルも変わりつつある。
一億総中流時代には、20代で結婚し、子供を2〜3人作り、皆が似たような家に住み、テレビ、洗濯機、冷蔵庫の三種の神器を手に入れ、大量生産で作られた車に乗ることが「一般的な幸せ」だった。
しかし今は、あえてテレビを持たない家も多い。
都心部では車を持たなくても不便はない。
結婚イコール幸せとも限らない。
人は「一般的な幸せ」から離れ、それぞれが心の底から幸せを感じられるライフスタイルを選び始めている。
自分自身の価値観へ
既存の価値観がどんどんと壊れていく中で、2018年は自分自身の価値観を問い直すことが必要な年になるだろう。
大量生産に価値があった時代
かつての日本では、「効率の良い大量生産」に価値が置かれていた。
狭い国土、乏しい資源の中、人知をつぎ込み工場をフル稼働させ、便利なものを大量生産することを目指していた。
工場を効率的に運営するためには、価値観が統一されていることが望ましい。
統一された価値観を醸成するために、学校教育があった。
「近所に住んでいる同じ年の子供」というだけの理由で一箇所に集められ、友達を作れと言われる。
個々の興味は考慮されず、同じことを同じ教科書で同じ時間だけ学ぶ。
皆が同じ時間に集まり、同じ校則を守り、同じ時間に解散する。
そこに個人の趣味嗜好、適性が反映される余地はない。
誰もが画一的な生活を送ることを求められるのだ。
当時は、それが必要だったのだ。
画一的な生活で、画一的な人間を作る。
機械を動かす作業員、もしくは機械として働く人間には、個性はいらない。
画一的な規定に法って、画一的に動くことが大事だったのだ。
時代の変化
しかし、時代は変わった。
大量生産されたものに価値を感じる人が少なくなった。
「服はユニクロやZARAだけど、食料はオーガニックのものがいい」というように、拘りのないものの代名詞として大量生産品を利用する人が増えた。
今、価値があるものは、非効率であっても丁寧に作られたものである。
大量生産品の価値が落ちると、大量生産品を作る人の価値も低下する。
工業が発展し、ロボットが量産されるようになると、大量生産品を作る人は不要になる。
これまでの画一的な人間を作る教育が、人間の価値に結びつかなくなっているのだ。
自分自身の価値観に立ち返れ
しかし、まだ、この既存の価値観が変化したことを受け入れようとしない人は多い。
自分が価値があると信じてきたものを、もう価値がないと認めるのは、とても難しいことだ。
特に、この価値観で恩恵を受けてきた人にとって、その成功体験は忘れられないものだろう。
なので、恩恵を受けた人ほど、下の世代にもこの価値観を受け継ごうとする。
だからといって、この先、大量生産に重きを置く価値観が、人間に恩恵をもたらすことはない。
ロボットの方が人間より、画一的な規定に法って画一的に動くのが得意である。
大量生産型の生産ラインでは、人間がロボット以上の価値を発揮するのは難しいのだ。
これまで大量生産型の恩恵を受けていない世代こそ、この価値観から早く脱却して、違う価値観にシフトしなければいけないのだ。
ここでいう違う価値観とは、また別の統一された価値観のことではない。
各個人個人が心の奥底に持つ、自分自身の価値観に立ち返る時期が来たのだ。
以前のような、近所の人としか知り合うことができなかった時代では、自分自身の独自な価値観を表に出すと生きづらかったかもしれない。
しかし、インターネットがこれだけ発達した今では、遠くに住む人とでも、気軽に連絡を取り合い、関係を築くことができる。
自分自身の価値観を選択しても、世界各地から仲間を集めることができるのだ。
自分自身の価値観を取り戻す動きは、2018年、もっともっと加速するだろう。
私も、この価値観のシフトに乗り遅れないために、2018年に深めたいと思っていることがある。
長くなるので、それは別記事にまとめたい。