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追い詰められた人間にアドバイスも同情も必要ない。批難はなおさら必要ではない


介護、特に自宅介護してると、健やかな人と話がしたくなる。

意思疎通が難しくなると、何を話すにも丁寧に言い直したり返答に耳を傾けたりと時間が掛かってしまうので、話題を選ぶようになる。
「今日いい天気だね」のような何気ない話は、心にしまうか一方通行の独り言になって、何気ない会話ができなくなる。

例え絶望を感じていても、病人の前では表に出せない。
いつも前向きな気持ちを忘れていないように、明るく振舞い続ける。

くつろぎの場だった家が気を使う場所になると、心が休まらない。
大切な人が病気というだけでも精神的な負担が相当あるのに、心が休まる場所がないと追い詰められていく。

精神的にだけでなく、時間的にも金銭的にも身体的にも負担が大きい。
あらゆる方向から追い詰められて参ってしまう。
 

ギリギリまで追い詰められたとき、必要なのは現状把握だ。
自分が今置かれている状況や抱えているものを吐き出して把握しないと、心に余裕は生まれない。

現状把握のためには、人に話すのが一番だ。
でもそれも難しい。
自分の状況を話すためには、病気の話や抱えている様々な問題など、多くのことを説明しなくてはいけない。
追い詰められている人にとって、現状を分かるように説明するのは至難の技だ。
 

せっかく頑張って話したとしても、目的が達成されないことも多い。
一番きついのはアドバイスだ。
抱えまくって余裕がないときに更に「こうしたら」とタスクを増やされても、ますます余裕を失うだけだ。

次にきついのは同情だ。
追い詰められている人は、自分の感情に目を向けている余裕がない。
求めているのは、自分自身が置かれている現状を整理すること。
状況を整理して把握しないと、自分の感情に目を向ける余裕すら生まれないのだ。
そこに「かわいそう。大変ね」と言われても、どう反応していいかよく分からない。こちらが困惑してしまう。
他人の同情が問題解決の役に立たないことが分かっているだけに、同情を求めているように見られただけでも情けないような腹立たしさが湧き上がる。

でも、しょうがないよな、と思う。
相手が私の力になりたくて言ってくれていることはわかる。
突然重い話をされて困惑しているのもわかる。
こういう話をしちゃった私がいけないよな、と思う。
 

そういうときに医療関係者はありがたい。
説明しなくても、病名とステージを言うだけで、状況をわかってくれる。
他にもっと重い患者さんを見ているので、私の話を深刻に感じない。
「そういうこともあるよね」と世間話的に受け入れてくれることの有り難さ。
追い詰められているときに、深刻にならずにただ状況を一緒に見てくれることが、どれだけの救いになるか。

たった半年、夫の病気に付き添っただけでも私は相当追い詰められた。
それを何年も何年も介護していたら、どれだけの負担が心にのしかかるか。
 

もし、身近な人や親しい人が追い詰められて弱音を吐いていたら、何も言わずにただ「うん、うん」と聞いていて欲しい。
優しい人ほど手助けしたくなるだろうけれど、心の中に大量に詰まっている物をまずは吐き出させて欲しい。
「あれすれば?」「これはどう?」と外部の人が思いつくアドバイスは、当事者は既に試していることが多いものだ。
既に試して効果のなかったアドバイスを貰うよりも、ただただ話を聞いてもらうほうがありがたい。

そして不甲斐なく思っても、批難しないで欲しい。
たまに来て、たまにやるだけなら簡単にできることでも、毎日毎日やり続けるのが辛いことはたくさんあるのだ。
「食欲あるね、元気そうで良かった」とも言われるが、食べないとこちらの身体が持たないから、味もしない食べ物を必死で飲み込んでいたりする。

当事者は自分には見えない多くのものを抱えているのだ。
目に見えることだけを見て、アドバイスや批難しても、的外れになりやすい。

追い詰められている人に外部の人ができることは、ただ黙って話を聞くことだけだ。
あとは当人に頼まれたことだけやるのが一番いいのだ。

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