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しずかみちこ
Gallup認定ストレングスコーチ
ストレングスファインダー(クリフトンストレングス)の専門家として、個人やチームが「強み」を活かして最大の成果を生み出すためのコーチングと研修をしています。

リクルートスタッフィングで経理したり、レアジョブの管理部門立ち上げたり、ブラック企業に入ったり、上司の横領見つけて辞めさせられたり、人の会社2つ作ったりと波乱万丈な職歴の後、独立して今に至ります。

投資と経理スキルでお金をデザインし、ストレングスファインダーで強みを活かしたら、人生が楽しくなりました。

趣味は野球観戦と美味しいものを食べること

収集心・最上志向・戦略性・未来志向・分析思考
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小谷野栄一と福良淳一。パニック障害の野球選手を支えた絆

小谷野栄一(日本ハム→オリックス)の引退報道が流れた。
オリックス福良淳一監督の退任が決まったと聞いて覚悟はしていたが、やはり寂しい。

小谷野がオリックスに移籍を決めた2014年を思い出す。
そして、小谷野の病気のことを思う。

小谷野がパニック障害を発症したのが2006年。
あれから12年。まだ12年。
小谷野は試合に出続けていた。

目次

病気との闘い

2003年に日本ハムファイターズに入団した小谷野は、数年の間、一軍と二軍を往復する選手であった。

日本ハムの二軍の本拠地は千葉にある鎌ケ谷スタジアム。
ここはグラウンドと観客席がとても近い球場で、ヤジどころか観客同士の会話やため息でさえ選手に聞こえる、選手にとってはやりにくい球場である。

セカンドを守る小谷野(2005)

発症

入団4年目となる2006年、小谷野はパニック障害を発症する。

ウグイス嬢が次の打者として小谷野の名前を場内に告げると、小谷野はベンチで嘔吐してしまう。
何も知らない観客が早く出てこいと促す。パニックになり立ち上がれなくなる。
そうして試合に出られなくなり、練習に出られなくなり、寮の部屋からも出られなくなった。

ご飯は喉を通らない。眠りたくても一睡もできない。
常に人前でプレッシャーに晒され続けるプロ野球選手にとって絶望的な状態に陥っていた。

当時の日本ハム二軍監督の福良淳一は小谷野にどう向き合えばいいか激しく戸惑ったそうだ。
このまま部屋に閉じこもらせていていいのだろうか?
かといって、無理にグラウンドに引っ張りだすのはどうなのだろうか?

その頃、投手から野手に転向したばかりの糸井嘉男が、毎晩居残り特打で遅くまで練習をしていた。
大勢での練習が無理でも、誰もいない練習場で糸井と一緒に夜間練習をするのはどうだろう?

投手をクビになった糸井と、打席に立てない小谷野。
プロ野球選手として追い詰められた状況の二人が、福良二軍監督のもと練習を重ねていった。

試合への復帰

2006年10月。小谷野に試練が訪れる。
宮崎で行われるフェニックスリーグのメンバーに選ばれたのだ。

フェニックスリーグとは若手の選手に試合の機会を与えるためのリーグ(別名:教育リーグ)で、半月に渡って行われる。
いくら若手向けのリーグ戦とはいえ、練習にすらほとんど参加できない小谷野が選ばれるのは異例のことだ。

なぜ小谷野が選ばれたのか、その理由は2006年の日本ハムファイターズを見ると分かる。
2006年4月18日、札幌ドームのお立ち台で、新庄剛志が突然の引退宣言をした。
そこから、新庄劇場と後に呼ばれるパフォーマンスもあり、空席の目立っていた札幌ドームが満席の試合が続く球場に生まれ変わり、日本ハムは快進撃を続けた。

フェニックスリーグの始まる10月頭は、北海道はプレーオフ(今で言うCS)で盛り上がっていた。
ここからはプレーオフから日本シリーズと重要な試合が続く。
もし怪我人が出た時にすぐに代わりの選手が補充できる状態でいなくてはいけない。
しかし、北海道は遠い。
何が起きてもプレーオフや日本シリーズに出場できない状態の小谷野は、安心して遠い宮崎県に送り出せる選手だったのだ。

必要最小限の人数だけが宮崎に派遣された。
控え選手も最小限だったため、小谷野は否が応でもフェニックスリーグの試合に出なくてはいけなくなった。

そんな小谷野に福良二軍監督は声を掛けた。
「結果なんて気にしなくていい。バットを振らなくてもいい。
とにかく打席に立て。まずはそこから始めようやないか。
どうせみんな日本シリーズに注目していて、こっちは誰も観ていないのだから。」

小谷野は吐き気やめまいと戦いながらも、14試合全てに出場した。
この経験が、嘔吐しながらでも野球はできる、という自信に繋がるのである。

一軍へ

パニック障害を発症した翌年の2007年、小谷野は一軍でのレギュラーを掴んだ。

2008年、小谷野を支えていた福良二軍監督が一軍コーチに配置換えとなる。

2009年、日本ハムがリーグ優勝!
グラウンド上で多くの取材陣がこの年活躍した小谷野にインタビューしようとするも、他の選手がさりげなく(もしくはあからさまにふざけた振りをして)カメラと小谷野の間に入りこみ、かばう様子が映し出された。

2010年、小谷野栄一は全試合出場を果たした。
ゴールデングラブ賞とベストナインにも選ばれた。

小谷野の華々しい活躍を見ていると、パニック障害とは感じなかった。
しかし、2011年の一軍での試合中、チャンスで打順が回ってきた小谷野が、ベンチから出てこないことがあった。
意識しないと気づかないが、小谷野は病と戦いつつ、試合に出続けていたのだった。

オリックスへ移籍

2014年オフ、FA権を行使するか否か、小谷野は悩んでいた。
家族の前で感情を荒げ取り乱してしまうほど悩んだ、と小谷野はいう。
そして、ついにオリックスへの移籍を決断する。

通常はこれまでの仲間が敵となるため、同一リーグへの移籍はファンから歓迎されないことが多い。
しかし多くの日本ハムファンが、温かく小谷野を送り出した。
なぜなら、この時のオリックスには、かつて日本ハムの二軍監督として小谷野を支えた福良淳一がいて、かつて鎌ヶ谷で共に練習した糸井嘉男もいたのだ。

オリックスでの小谷野

2016年、福良淳一はオリックスの一軍監督となった。
そして、2018年秋、福良淳一がオリックスの監督を退任することを表明した。
球団は続投を要請したが、福良自身が固辞したらしい。

そして、同じく2018年秋、小谷野栄一の現役引退が発表された。

ありがとう、小谷野

小谷野の16年間のプロ野球選手生活が、もうすぐ終わる。

福良監督を胴上げしたいと誰よりも思っていたであろう。
ここ数年は思うような活躍のできないプレッシャーと戦う日々だったであろう。

小谷野はヒゲを伸ばしている。
ある日のインタビューで、ヒゲについて聞かれて、小谷野はこう答えた。
「これを剃るくらいなら、身体の他の部分を見られたほうがマシなくらい恥ずかしいんです。女の人がスッピンで外に出れないみたいな、そういうものなんです。」

ヒゲすらも自分を守る鎧代わりにして、野球を続けた小谷野。
プロ野球選手として、華やかな場に身を置きつつも、病と闘い続けた日々が、もうすぐ終わる。

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