人間の生きる基本とは?モンゴルの遊牧民の感じたこと
モンゴルでは遊牧民の暮らす土地に行った。
遊牧民について、どのような印象を持っているだろうか?
自由気ままにその時の気分で心の赴くままに移動して暮らす人々。
競争には無縁で、素朴な自給自足生活を送る人々。
少なくても私はそういう暮らしをイメージしていた。
だが、実際は違った。
遊牧民の遊牧戦略
遊牧民は何も考えずにフラフラと草原を移動していると思っていたのだが、そう簡単なものではないようだ。
季節ごとの放牧地
モンゴルの草原は広い。
見渡す限りの草原であり、車で何時間走ろうとも、ただただ草原が広がっている。
太陽は遮るものなく照らしつけ、風は遮るものなく吹きすさぶ。
私が訪ねた9月中旬は冬になる直前の季節で、昼は20℃くらいまで気温が上がるが、夜は氷点下になる日もあった。
このような場所なので、何も考えずに移動していたら、暑さや寒さにやられてしまう。
太陽が容赦なく照らしつける夏は、水を多く確保できる川辺に移動する。
寒風が吹きすさぶ冬は、風を少しでも避けられるように小さな山の麓に家畜小屋を建てる。
この小屋は一度建てたら毎年使うので、同じ場所に戻ってくる。
ただ何の気なしに移動しているのではなく、どこに移動するかを考えている。
冬は同じ場所に戻ってくるので、草を食べ尽くさないように、春夏秋はその周辺では放牧をしない。
そうなると、毎年季節ごとに似たような場所をローテーションで回ることになる。
モンゴルはかつては社会主義国家だったが、現在は資本主義を採用している。
以前は土地はすべて国のものだったが、今では私有も可能だ。
そういう訳で、経済的に裕福な遊牧民の中には土地を購入するものも現れた。
土地を自分のものにして同じところに通う方が、毎年どこに移動するかを考えるより楽なのかもしれない。
土地を購入すると、そこに柵を建てる。
多くの家畜を飼うための土地なので端が見えないほど広い。
下の写真の中央を横切り奥に向かう黒っぽい線が、自分の土地の境界を表す柵である。
余談であるが、この柵を見たときに万里の長城を思い出した。
自分の土地を柵で覆うという発想は同じなんだなという感想を持った。
どこに移動するといいのか季節によって見極め、ある者は土地を買う。
遊牧生活は勝手気ままなわけではないのである。
何の家畜を飼うか
モンゴルで主に飼われている家畜は羊、ヤギ、牛、馬、ラクダの五種類である。
これらは五畜と呼ばれていて、モンゴルの経済を支えている。
遊牧民にとって、家畜は財産と同じである。
どの家畜をどれだけ飼うかによってその年の収入が変わってくる。
飼育できる頭数は家族の人数によって左右される。
知恵を絞るところは、どの家畜を飼うかだ。
例えば、カシミア用のヤギであれば、毛だけを売るので個体は残り、翌年もまた毛を売ることができる。
食肉用の羊であれば、個体そのものを売るので、手元には残らない。
頭数の安定という意味では、ヤギの方が安定的だ。
一方、カシミヤは輸出用で贅沢品なので、世界が不況になると売れなくなって値崩れする。(リーマンショック翌年は散々だったらしい)
しかし、羊はモンゴルの日常食材なので、不況に強い。
価格の安定という意味では、羊の方が安定的なのだ。
例えば、羊を100頭売れば1年暮らしていける収入を確保できるとしよう。
毎年新たに100頭の子羊が産まれるほど大きな群れを飼うことができるのであれば、安定した収入を確保することができる。
だが、大きな群れを扱えるほど人手がないのであれば、ヤギに頼る必要が出てくる。
どの家畜を何頭買うかは、各家庭の状況によって最適解が変わる、正解のない問題なのだ。
それぞれの家庭の事情と采配を振るう人の能力が掛かっているのだ。
遊牧民の経済状況
遊牧民は、夏には家畜の乳から作った飲み物や食べ物を取り、冬には家畜の肉を食べる。
住居であるゲルも木の柱と羊の毛から作ったフェルトで出来ている。
必要最低限の生活を送るのであれば、現金は必要なく、自給自足で生きていくことができる。
しかし、実際は現金を使うことも多い。
ラクダかトラックか
私が訪ねた時はちょうど季節の変わり目の移動の時期だった。
遊牧民にとってはラクダが移動の手段だと聞いていたのだが、実際はトラックがゲルに横付けされている光景を見た。
常にトラックが止まっている訳でもなさそうなので、レンタルトラックなのだろう。
移動のためにラクダを飼うよりも、トラックを借りるほうが良い。
そう思う遊牧民が増えているようだ。
馬かバイクか
モンゴルと言えば誰もが馬に乗っているイメージだったが、実際はそうでもなかった。
自分の家畜の群れを確認するために馬を走らせている人もいるのだが、バイクに乗っている人もいた。
そもそもほとんど人を見かけることがなかったので、実際のところはどちらが多いのかは分からないが、バイクのほうが多い印象だった。
見渡す限りガソリンスタンドがないので、どうやって燃料を補給しているのだろう。
しかし、それでも馬よりバイクを移動に使う人がいる。
今でも多くのモンゴルの人は馬に乗れるらしいが、首都であるウランバートルの子供の中には乗れない子供も出てきていると聞いた。
助け合う遊牧民
外務省のデータによると、モンゴルの人口は約324万人。
そのうち半数近い約150万人が首都ウランバートルに住んでいる。
国土の面積は約156万4100平方キロメートル。
ウランバートルの面積は約4704平方キロメートル。
つまり、ウランバートル以外の156万平方キロメートル(日本の約4倍)に、170万人(日本の人口の74分の1)が住んでいるということだ。
日本に置き換えてもさっぱり見当がつかないが、テレルジはウランバートルから近い町にも関わらず、人が少ないところだった。
通りすがりの遊牧民
ツアーメンバーはガイドも含めて7人だった。
7人で草原で何かをしていると、遊牧民がやってくる。
草原は広いので、遠くからでも人がいるのがわかる。
そうすると、わざわざこちらに何をやっているのかを見に来るのだ。
面白そうだったら、混ざってくる。
何も問題がなさそうならば、立ち去る。
そして、困っていたら、助けてくれる。
遊牧民はごく自然に輪に混ざり、ごく自然に助けてくれる。
あまりに自然なのでモンゴル人のガイドの友人かと思ったほどだが、実際はただの通りすがりの遊牧民だった。
そして、こちらから見知らぬゲルを訪ねることもある。
それでも突然の訪問者にも親切に対応をしてくれた。
モンゴル人のガイドは当然のようにこう言った。
「モンゴルでは基本的に困った時は助け合う文化があります。
それは遊牧の文化の一部です。
誰でも旅の途中で困る事が多々あるからです。」
こう聞くと、「日本人も助け合う文化があるよね」と思うかもしれない。
だが大きな違いがある。
私がモンゴルで驚いたのは、通りすがりの遊牧民の「全員」がこちらの様子を確認し、見に来ることなのだ。
全員と言っても1〜2時間に1人通りかかればやっとという場所なので、たまたま親切な数人が続いたのかもしれない。
けれども、逆に人が少ないからこそなのかなとも思った。
東京の中心部にいると、誰か困った人を見かけても「他の誰かが助けてくれるかも」と、急いでるふりをして立ち去ってしまうことがある。
しかし、遊牧民の土地では「他の誰か」が来ることはないかもしれないのだ。
特別なこととは感じさせずに自然に寄り添い、自然に手を差し伸べる。
この自然さが、とても印象に残った。
人間の基本とは
モンゴルに滞在し、自分がいかに経済活動によって自分を見失っているのかを感じた。
常日頃から「お金を稼がなくては」「成長しなくては」という思いに追われているのだ。
そして「スローライフ」や「丁寧な暮らし」という言葉も私を追い詰める。
食事をインスタントなもので済ませてしまったり、穴の空いた靴下を修繕すること無く捨てたりすることに罪悪感があることがある。
しかし、遊牧民を眺めていたら、人間の基本は、「生きること」と「助け合うこと」なのだという思いになった。
まず、根底に「自分が生きること」「他の人や動物の生きる権利を脅かさないこと」「助け合うこと」があって、そのうえに「どうやって生きる」かがあるのだ。
遊牧民を知らなかったら、遊牧民の助け合う精神に触れても「あくせくしてない人は親切ね」で終わっただろう。
だが、そうではない。
遊牧民も彼らなりの経済活動を営んでいる。
どうやって望む暮らしをしていくかを考え、実践している。
しかし、基本に「生きること」と「助け合うこと」という精神があるからか、人に手を差し伸べる余裕がある。
また、自分が困ったときに助けを求める余裕もある。
経済活動は、どんな種類のものであれ、この精神を基本として行われているものなのだ。
どんな生き方を選ぶにしろ、そこに一生懸命になりすぎて助け合うことを忘れたり、人を批判することに必死になったり、生きることを放棄したりするのは、本末転倒なのだ。
「生きること」と「助け合うこと」。
この2つがあれば、人生は最高なのだ。
参考
関連記事
モンゴルの旅で感じたことです。
モンゴルの人との距離と家畜との関係を考えて、自分自身を振り返る
https://koto1.com/archives/12922
関連書籍
今回の旅の前に読んだ本。
モンゴルと遊牧民について理解が深まる良書でした。