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教養とは知識があることではなく、心の震えを指すのかもしれない

横尾忠則現代美術館

ある日、美術館で

機会を見つけて、美術館に行くようにしている。
絵画や彫刻に明るいわけではないが、教養をつけておいた方がいいかな、といった軽い気持ちだった。

でも、その教養とは何か、と気付かされる出来事があった。

神戸・横尾忠則現代美術館

横尾忠則現代美術館に行った。

進んでいくと、一枚の絵が強い印象とともに現れ、私はその絵の前で動けなくなった。
その絵は「金閣炎上」と名付けられていた。

横尾忠則現代美術館

『金閣炎上』。横尾忠則現代美術館ではほぼ全ての作品の撮影が許可されている


 

私にとって燃える金閣と言えば、三島由紀夫の『金閣寺』だ。

絵に描かれている男性が三島由紀夫に見えた。
『金閣寺』で火をつけたのはお寺の書生だったはず。
絵にいる男性はスーツ姿で体格が良く、どう見てもお寺の書生には見えなかった。
そのため、この男性は三島由紀夫だと勝手ながら確信した。

いや、違う。
私が絵の男性を三島だと思った理由は別のところにある。

三島の小説は、しばしば作者が顔を出す。
時には主人公を押しのけて作者が語り出し、その強烈な自意識に、私はうんざりさせられている。

横尾忠則の絵を見た時、そこに主人公を押しのけて顔を出す三島を感じたのだ。

絵を見ながら、これは『金閣寺』の再構築だ、と思った。
 

かつて訪れた「81」というレストランのスペシャリテである「カルボナーラの再構築」というメニュー。
カルボナーラの構成要素である、チーズ、卵、クリームをばらけさせ、組み合わせて作られた料理だ。
見た目はカルボナーラとは程遠いが、食べるとカルボナーラで、強い印象があった。

カルボナーラの再構築。卵、パンチェッタのソテー、クリームソース、周りにはパルミジャーノとペコリーノの2種のチーズ。


 

目の前の「金閣炎上」には、三島と思しき男がいて、女と思しき肢体の顔の部分は燃えており、そこには焼き落ちる金閣寺がある。
小説『金閣寺』を構成している要素が絵画として再構築されていると感じたのだ。

この日の展示で、一番興味深く見たのが、この絵だった。

六本木・ANB Tokyo

その数日前、私は六本木のANB Tokyoで、20代前半の作家たちの現代美術の展示を見ていた。

その会場で作品に囲まれながら、つい文字を探している自分に気がついて苦笑した。
作品についての説明表示だったり、作品中に描かれた文字だったり、とにかく意味がわかるものを求めていた。
文字を読み、意味を取り、理解したいと思っていたのだ。

展示品の一つ


 

私が大学生の時、サークルの先輩が写真もやっていたため、大学生の写真の展覧会に何度か足を運んだ。
そのときは何も説明がなくても、自分の好きな写真を見つけ出すことができた。
意味を説明されなくても、見ることができていたのである。

この日の帰り道、自分は若い感性を失ったのだと暗澹たる気持ちだった。

目次

私が失ったもの

しかし、横尾忠則美術館の帰り道、私が失ったものは「感性」ではなく、「共通の体験」かもしれないと思うようになっていた。

作品を見て、何かを感じ取るということは、こちらの心の琴線に何かが触れるということだ。
琴線を震わすには、そもそも琴線を持っていないといけない。

更に、自分の心の奥にある琴の糸を鳴らすにも相性がある。
バイオリンの弓を琴に押し当ててもいい音がでない。
琴を弾くなら琴爪が求められるし、バイオリンの弓を使うならバイオリンが必要だ。

作品を見るなら、その作品に合った楽器を心の中に持っていないと、心が震えないのだろう。

私が横尾忠則が書いた三島由紀夫を思い起こさせる絵に反応したのは、その絵が持つものが私の心の中にある三島由紀夫と共鳴したからだ。
私の中に三島由紀夫がいなければ目に止まらないし、横尾忠則の三島由紀夫と私の三島由紀夫に通じるものがなければ、私はその絵の前で立ち止まることは無かっただろう。

教養とは

“教養”とよく聞くようになった。リベラルアーツとも呼ばれるらしい。
「教養があると視界が広がる」「教養がないと理解できない話がある」と言われて、そういうものかと思っていた。

歴史を知ると知らないとでは、現在の世界情勢を見ても受け取り方が変わってくる。
シェイクスピアを知っていたら、なにげない映画のセリフがウィットに富んだものだと理解できたりもする。

しかし、それがゴールではない、という思いが湧いてきた。

私が三島由紀夫の『金閣寺』の内容を知っているだけであれば、横尾忠則の絵を見て「面白い」とは思ったであろうけど、すぐに立ち去っただろう。
『金閣寺』を含む三島文学が私の心をざわつかせた経験があるからこそ、横尾忠則の絵によってそのざわつきが蘇り、私は動けなくなった。
そこから、横尾忠則が何を表現したかったのかに興味を持ち、想いを馳せた。
かなり長い時間、その絵の前に立ち尽くしていた。
この絵を見た他の人の感想も聞きたくなった。
 

「教養」とは、歴史や文学などの高尚な知識があることではないようだ。
高尚かどうかは関係ない。
それが何であれ、自分の中にあるものと目の前にあるものが出会い、心を震わせた経験が教養なのではないだろうか。

そして、その心の震えを誰かと分かち合うことができたとき、そこに喜びが生まれる。
同じように震わせる必要はなく、自分の心の震えと誰かの心の震えが違った時でもその違いを興味深く感じること、その一連が「教養」なのではないだろうか。

歴史であったり有名な芸術作品であれば、知っている人が多いから多くの人と分かち合うことができる。
なので、そういう知識があることが教養であるかのように言われるが、知っているだけではダメなのだ。
知識があると奥深く味わえるが、その奥にある味わいに気づかないまま知識をひけらかすことは教養ではない。

私はまだまだ知らないことがたくさんあるけれど、心の震えには敏感でありたい。
そう思った。

横尾忠則現代美術館

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