20年ぶりに柔道を見て感じた、伝統を守るということの意味
私の父は柔道が好きで、両親と一緒に住んでいた頃はテレビでよく柔道を見ていた。
オリンピックや世界選手権だけではなく嘉納治五郎杯や講道館杯など、テレビで放映されるものは殆ど見ていた。
一人暮らしになりテレビのない時期も長かったので自然と柔道から遠ざかっていたのだが、この2020東京オリンピックで久々に柔道の中継を見た。
雰囲気が全く変わっていて、驚いた。
私が見ていた1990年代後半の頃、当時は柔道が国際化していくにつれて「伝統が無くなっていく!」「柔道の精神が!」と喧々諤々の議論があったし、そう言いたくなるほどの技とは言えない雑なプレーを見かけたりもした。
それが、いつの間にかスマートな洗練された国際大会になっていたので驚いた。
この変化は何故起きたのか。
伝統は失われたのか。
この2つを考えながらテレビ見ていた。
※この記事は、自分では柔道をやったことがない素人の所感です。
私が最後に見た柔道は、田村亮子(谷ではない)が素早く技を掛けまくり、古賀稔彦が膝をつかない豪快な一本背負いを見せていたあの時代です。
柔道を20数年ぶりに見た浦島太郎状態の素人の目にはこう写っているんだという軽い気持ちで読んでいただけると幸いです。
柔道に感じた変化
私が20数年ぶりに柔道を見た感想を一言でまとめると、「わかりやすくなっている」ということだ。
どの辺りに変化を感じたかを羅列するとこうなる。
・カラー柔道着の浸透
・畳の色の変化
・「有効」「効果」の廃止
・旗判定の廃止
・選手の技が見ていて気持ちいい
目に見える変化である上の4つに比べて、一番下が主観的かつ語彙力のない感想で申し訳ないが、一番大きく驚いた変化はこの試合スタイルの変化である。
視覚的わかりやすさ
1990年代、カラー柔道着は柔道の伝統を壊す悪者扱いだった。
白い柔道着と伝統について、部外者の私がどうこう言えるものではないと思っている。
ただ、青と白の戦いになって、どちらの手がどこにあるのかなどが格段にわかりやすくなった。
寝技のときに特にそう感じる。
そして、かつての畳は、い草の色にオレンジの太いラインが書かれたものだった。
ラインの上で技が決まったとき、これは場内?場外?と戸惑ったものだ。
この東京オリンピックでは黄色と赤の2色に塗り分けられ、場内と場外が一目瞭然だ。
選手にしろ畳にしろ、「これはどっち?」と迷うことが無くなり、ストレス無く見られるようになっていた。
主観を排したことによるわかりやすさ
柔道の技、特に投げ技において、一本勝ちはわかりやすかったが、技あり・有効・効果については基準が曖昧だと感じることが多々あった。
それが、有効と効果が無くなってわかりやすくなっていた。
投げ技を掛けて決まったときに、背中が落ちれば一本、そうでなければ技ありと単純化され、非常に明快だ。
有効と効果が無くなったことに気づくまでは「え?今のが技あり?有効レベルじゃない?」と違和感がある場面もあったが、すぐに慣れて、むしろ理解しやすいと感じるようになった。
そして旗判定。
審判の主観で、闘志などの数値化出来ないものも含めて判定される。
スッキリしない判定も過去には見掛けた。
主観が排され、基準が明確になったことで、判定へのストレスが無くなった。
柔道の変化が技に及ぼした影響
上で「主観を排してわかりやすくなった!」と言った直後に、私の主観全開になって申し訳ないのだが、柔道の組み手が面白くなったと感じた。
なぜ面白く感じるのかと考えてみたところ、どの選手も最後まできちんと技に向き合っているからだと結論が出た。
もともと柔道は、一本を目指して技を掛け合い、一本に届かなかったものが技ありで、技ありにも満たないものが有効であり効果であったと思う。
ところが国際的に柔道が広がるにつれて、勝つための柔道として、効果一つだけでも取ればいいという風潮が見られた。
足技は、相手の上半身を押したり引き寄せたりして相手のバランスを崩し、重心が偏って乗っている足を払うものだと思っていたが、相手の上半身に圧を掛けずにただ足払いだけをして、体勢を崩して効果を狙うプレーが見られた。
効果1つでも取れれば、あとは指導を取られないように技を掛けるふりをしつつ逃げれば勝てる。
見ていてつまらない柔道だが、ルール上はこれで勝てる。
それが、有効と効果を廃したことで、一本勝ちを目指す本来の柔道が戻ってきたように感じた。
そして、以前は誤審と感じる場面も時々はあった。
誤審が起きにくいような色にし、審判の主観を排するようなルールにすることで、よりフェアになったと感じる。
審判の主観が排されるなら、審判に媚びるようなプレーをする意味がなくなり、プレーもフェアになっていく。
デザインによる人の変化
柔道の伝統が失われる!と言われていたあの頃。
フェアとは掛け離れたプレーや、勝てればいいという荒い技を見て、がっかりしていた私がいた。
しかし、伝統というものは幼い頃から身体に叩き込まれて身に付くものであるから、海外の人に柔道の心を伝えるのは難しいと思っていた。
なので、粗雑なプレーはこの先も加速していくのではと思っていた。
けれども、実際は違っていた。
私の見ていなかった20年の間にあった、様々な変化。
見た目もルールも変わっていた。
それぞれが良い変化を起こすようにデザインされ、そのデザインに従って、選手のプレースタイルも変わっていった。
「伝統を守れ!」と口でうるさく言っても変わると思えなかった技のスタイルが、ルールをデザインすることで変わっていくのは大きな発見だった。
あのとき、粗雑なプレーをしていた選手たちも、伝統を破りたくてやっていたのではない。
勝ちたかっただけなのだ。
であれば、伝統を守った先に勝利があるようにデザインすれば、選手は自然と伝統を守った技を繰り出すようになる。
伝統と変化
一つ前の文章で「伝統を守った先に勝利が〜」と書いたが、この伝統とは何を指すのだろうか。
1990年代には、白い柔道着が伝統を表すものと言われていた。
白という濁りのない色が、柔道の本質である清い心を表しているという主張だった。
そういう意味では、柔道のお膝元である日本で行われるオリンピックで青い柔道着をまとうなんて、伝統が壊されていると言えるかもしれない。
けれども、本当に守るべき伝統は、柔道着の色だったのだろうか?
柔道着の色は清い心を表す一つの象徴にしか過ぎないはずだ。
「何事をするも、そのことを完全に仕遂げようと思えば、その目的を果たすために心身の力を最も有効に働かすにある」という柔の道を表した嘉納治五郎の言葉こそが柔道の伝統なのではないだろうか?
そう考えると、柔道着を見やすくし、畳の色を変え、ルールを変え、戸惑う余地が減った今の柔道は心を最も有効に働かせる仕組みになっているのではないだろうか。
一本勝ちを目指して組み合う柔道は、自分と相手の力を利用して力強い技を繰り出す本来の伝統的な柔道に戻ってきたと感じる。
これまで伝統だと思っていた形式を廃することで、本来の伝統が守られていく。
そういうことがあるのかもしれないと感じた柔道の試合だった。
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