心のこと

宗教の家から逃げ出した母が、私に授けた教育の話

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幼いころ

私は、寺町と呼ばれるところで育った。
マンションの隣も正面も裏もお寺だった。大家さんもお寺だった。
今思うと不謹慎だが、お墓が遊び場だった。
お墓参りごっこと称して、知らない人のお墓にタンポポやシロツメクサを供えてお参りした。
お墓で転ぶと早死にするという迷信が子供の間にあったので、鬼ごっこは命がけだった。

母は、そんな私を神道系の幼稚園に通わせた。
同時に、お寺の座禅会にも通わせた。
幼稚園を卒園したあとは、カトリック系の小学校に通わせた。座禅会には通い続けた。
どうしてこんなにごった煮なのかと母親に尋ねたら「自分で宗教を選べる人になってほしいから」と答えた。

本来の宗教

宗教の本来の姿

こうして複数の宗教観に触れて育った今思うことは、神は一つであり、そして無限であるということだ。
この世には人間がコントロールできない大きなものがある。
エネルギーのうねりのようなものだ。
それを神と呼ぶ人もあれば、宇宙と呼ぶ人もある。
このエネルギーのうねりの中に人間も地球もあらゆるものが包まれている。

それは人間が全容を把握できるようなものではない。
象の背中に乗るアリが、象の全容を把握することが不可能なように、人間も自分を取り囲むエネルギーの全容を把握することはできない。
象の背中のアリは、象のことを「平面で灰色でザラザラしている」と思っている。
象の尻尾につかまるアリは「細くて長くて黒い毛がついている」と思っている。
どちらも象の説明として間違ってはいない。

私は、宗教とは、こういうものだと思っている。
宗教とは、世界を取り巻く大きなエネルギーのうねりを、それぞれが把握できる範囲で、それぞれが理解できる言葉に直したものである。

宗教が教えてくれるもの

本来、宗教とは、知れば知るほど「自分が知らない」ということに気付くことができるものである。
本質に迫れば迫るほど、自分一人では神の全てを理解しきれないことに気づき、その絶大さの前に謙虚な気持ちが生まれていく。

先日亡くなったノートルダム清心学園理事長の渡辺和子さんのお別れ会にて、友人代表として挨拶をしたのは曹洞宗愛知専門尼僧堂の青山俊董堂長だった。渡辺さんはカトリックのシスターだが、宗教の枠を超えて青山さんと交流していたのだ。
宗教の枠に囚われていたら、宗派を超えた交わりは起きないだろう。
2人とも、宗教という枠ではなく、その先の神や仏を見つめていたから、友情が生まれたのだろう。

宗教の役目

ところが、宗教を深く信じている人の中には、とても頑固で、他の意見を聞き入れようとしない人が少なからずいる。
それは何故だろう。
そういう人は、自分の弱い部分を宗教に任せきりにし、自分の足で立つことを放棄しているのだ。

宗教は、人間を支えるものとして生まれた。
辛いとき迷ったときには宗教はどう生きるかの指針となり、くじけそうなときには神の言葉で心を奮わせる。
しかし、これは、自分の足で立ち、前に進む人にとっての話である。

人を頑なにする宗教とは

弱い人

自分に自信がなく弱い人は、誰かに「あなたは正しい」と言ってほしい。
しかし、周囲の人はなかなかそう言ってくれない。自分で「私って正しいでしょ」と言うのも憚られる。
そんなとき、その弱さに付けこむ人がいる。「この宗教を信じなさい。これは正しい教えだから、これを信じてその通りに行動すれば、あなたも正しい」
確かに、そのように行動すると、その仲間は褒めてくれる。「それでいいのです。素晴らしいですね。あなたは正しい道を歩んでいます」

弱い人は、この賞賛を心の拠り所にしてしまう。
本人は、その宗教や神を心の拠り所にしていると思い込んでいるが、実際は賞賛を浴びることが心の拠り所になっている。
褒められることで、自分に存在価値があるように感じるのだ。

宗教が存在価値になる

このような人は、自分が加入している宗教を少しでも否定されると、激しい嫌悪感を表す。
なぜなら、その宗教が正しいことが、自分の存在価値の前提だからだ。
正しい宗教を信じて、正しい行動をとっているから、正しい私でいられて、皆が認めてくれている。
そう思い込んでいる人に、その宗教は怪しいと言っても聞き入れるわけがない。
宗教の否定は自分自身を否定されるのと同じことなのだ。
なので、自分の信じている宗教に懐疑的な態度を取られると、激しい嫌悪感を示すのだ。

これがエスカレートすると、自分の信じる宗教を否定する人から離れて、自分を肯定し褒めてくれる人と常に一緒にいたがるようになる。
ここまで来ると、周囲は洗脳だと騒ぎ出すが、本人は褒めてくれる人のそばにいたいだけだから、洗脳されているという意識はない。
ますます頑なになっていくだけである。

こうなると、簡単には目が覚めない。せっかく手に入れた自分の存在価値を、人に言われたくらいで手放すことができる人はなかなかいない。

たくさんの宗教に触れたこと

はっきりと聞いたことはないが、母の実家は、とある宗教にどっぷりとはまっている家のようで、母はそこから逃げ出してきたのだと思われる。
その母が、私にした教育が、幼いうちにたくさんの宗教に触れさせることだった。

世の中にはいろいろな考えと価値観があること、言葉は違っていても同じことを言っていたりすることを通して、数ある宗教も元は一つなのではと考えられるようになったことは大きかった。
自分の意見を持つためには、たくさんの意見に触れる必要がある。
宗教を通して、そのことを学んだ。

子供の頃は、家に近い幼稚園に近所のお友達と通って、そのまま近所の小学校に入りたいと思っていた。
そういう進路だったらどのように育ったのかは分からないけれど、今では母の教育方針に、とても感謝している。

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