人の死と向き合う人に「後悔」と言う言葉を投げかける残酷さについて
この春、母を亡くした。
病気発覚から2ヶ月だった。
あっという間だったが、濃い2ヶ月だった。
この2ヶ月の間に、私が激しく怒りを感じた出来事があった。
ただ、私に心の準備があったから、怒りで済んだ。救われた。
もしかしたらこの文章を読んだ人は「どうしてそれくらいで怒るの?」と思うかもしれない。
でも、私は事前に他の人の体験を読んでいたおかげで救われたから、私も体験を書き残そうと思う。
届いた「呪いの言葉」
母は癌だった。
病院が何よりも嫌いな母は「最近疲れやすいし、食欲がなくて」とは言うものの、自分が体調が悪いとは全く思っていなく、私が認知症検査に繋げるために無理矢理に健康診断に行ったときは、既に全身に転移し、医者が出来ることは何もないと言うレベルであった。
突然始まった介護生活に右往左往している私に励ましのメッセージが多く届いたが、中には困惑するものも混ざっていた。
なんとかという点滴が効くとか、どこかの霊峰の水がいいとか、そういう類のものだ。
あのときは、日々たくさんの選択に迫られていた。
延命治療はするかしないか。
家で看取るか、病院で看取るか。
おむつはするのかしないのか。するならどこのメーカーか。
栄養補助のドリンクは何味なら飲んでもらえるのか。
重い決断から些細なことまで、これまでに縁のなかった多くの物事を調べて決めなければいけない時に、エビデンスがあやふやな新たな選択肢を持ち込まれるのは迷惑でしかなかった。
そして、何よりも迷惑なのは、こういうメッセージと共に届く呪いの言葉だった。
「この点滴を拒否した人は死にました」
「あの水を飲ませておけば良かったって、遺された家族の方は後悔しています」
私は、これらの言葉を呪いの言葉としか受け取ることができなかった。
そんな言葉を送り付けてくる人に、激しい怒りを感じた。
なぜ「呪いの言葉」と感じたのか
なぜ、「この点滴を拒否した人は死にました」や「あの水を飲ませておけば良かったって、遺された家族の方は後悔していますよ」という言葉を呪いの言葉と受け取ったのか。
それは、私や父が日々強い罪悪感と後悔に苛まれていたからだ。
どうしてもっと早く病院に行かなかったのだろう?
→いや、本人が病院を拒否していたではないか。コロナ禍で面会禁止の長い入院生活を送るより、ギリギリまで家にいれてよかったのではないだろうか?
もっとマメに連絡したり帰省したりしておけばよかった。
→いや、電話しても喧嘩ばかりしてたのだから、たまに喧嘩しない頻度で会うくらいが、いい思い出となってよかったかもしれない。
このように、あのときああしておけばよかった、という後悔や罪悪感が常に湧き上がり、その都度、いや、でも、しなくてよかったかも、という思いも湧き上がる。
死を目前にした時、これまでの全てが、やっていてもやらなくても、後悔や罪悪感に繋がっていく。
日々のあれこれもそうだ。
医者に避けた方がいいと言われているアイスを母が食べたがった時、どうするか。
最期が近いのだから好きにやらせてあげたい思いで食べさせるのだが、たとえそれがティースプーン半分を一舐めしただけでも、翌日ちょっとでも具合が悪い様子を見せると、食べさせなければ良かったと後悔してしまう。
日々、どころか、毎秒毎秒全ての瞬間に後悔が発生する生活は辛い。
母の病は母の身体の76年間の積み重ねで生じたものであって、アイス半さじで決まるものではないと、必死に自分に言い聞かせる。
母の命と私がする選択とを切り離さないと、怖くて何もできなくなるからだ。
そんなギリギリの精神状態で毎日を過ごしているときに、突如投げつけられた「この点滴を拒否した人は死にました」や「あの水を飲ませておけば良かったって、遺された家族の方は後悔していますよ」という言葉。
点滴を打つ打たないでABテストができない以上、どちらが良かったという答えは一生出ない。
それなのに、私が点滴や水を拒否することが母の死因になるような言い方をしてくる。
どちらが良いか答えが無いのだから、どちらを選んでも後悔するのだ。
アイスを一舐めでさえ食べさせても食べさせなくても後悔するのだから、点滴だろうと霊峰の水だろうと何であろうとやってもやらなくても後悔するのだ。
ただでさえ湧き上がる後悔と恐怖の中で毎日を過ごしているのに、更に、どう転んでも100%後悔する言葉を投げつけてくる。
これが呪いでなくて、何なのだろう。
呪いだなんて大袈裟かと思うかもしれないが、そう感じるほど切羽詰まっていたし、追い詰められていた。
「後悔」という言葉の攻撃性
小学生の頃、不幸の手紙というものが流行ったことがある。
「◯日以内に10人に同じ文面で手紙を書かないと、あなたの大切な人が死にますよ」というやつだ。
誰にも回さずに自分のところで止めた友人は、3か月後に飼っていたインコが死んだ時、あのとき手紙を回さなかったからだろうかと泣いた。
小学生でも高学年だし、冷静に考えたら不幸の手紙とインコの死には因果関係がないと分かるだろうが、大切な存在の死に向き合う時、人は冷静ではいられない。
大切な存在を失うときの辛さ、寂しさ、不安は、人を心細くさせる。
その心細さを餌にして「後悔」という感情はどこまでも大きくなり、冷静さを失わせる。
「後悔」という言葉は、日常的に使う言葉だ。
それが怖い。
普段だったら何も気にならない言葉だけれど、心が弱っている人を見つけて、奥深くからえぐってくる。
「後悔」という言葉は日常的に使う言葉だから、相手に不信感を与えることはない。
そうして、相手が100%後悔することを言い、相手の心をえぐる。
その状態で、後悔から逃れられることがあると誘えば、目の前の辛さから逃れるために勧誘に乗る人はいるだろう。
「後悔」という言葉は日常的に使う言葉だから、使う方も気軽に使えてしまう。
人の弱みにつけこんだ悪徳な商売をしたいときは、大切な人の死に向き合っている人に「後悔」という言葉を投げつければ簡単に効果が出る。
心を守るために決めたこと
私にメッセージを送ってきた人たちは、ただ私に良い情報を教えたいと思って連絡してきたのだと思う。
善意で私を助けてくれようとしたのだろう。
世の中を見渡すと、このように善意で「後悔」という言葉を使っている例を時々見かける。
しかし、商売だろうと善意だろうと関係なく、人の死に向き合う当事者の心は「後悔」という言葉に切り刻まれるのだ。
切り刻まれる心を守るために、私は一つ決めた。
標準治療以外のものを勧められたとき、そこに脅しや呪いが混ざっていたら、それがどんなに良さげなものであっても、一律に拒否することにした。
怪しいか怪しくないか、相手が善意かそうでないかは、判断力が低下したら分からないかもしれない。
なので、怪しさや善意を基準にするのではなく、私の心の衰弱ぶりに付け込むようなことを言われたら、一律に拒否しようと決めたのだ。
だから、点滴も水もやらなかったことへの後悔はない。
私がこう思えたのは、写真家で血液がん患者の幡野広志さんが、いろいろな人に民間治療を進められることに激しくうんざりしている気持ちをtwitter上で表明しているのを見ていたからだ。
正直なところ、当時リアルタイムで見ていたときは、(何でこんなに怒っているのだろう?何も言わずにスルーしておけばいいのに)と思っていた。
でも、わざわざ書かずにはいられない何かがあるのだろうなと気にはなっていた。
だから実際に自分の身に起きたときに、「これか!」と身構えることができた。
相手が善意であろうと拒否してもいいのだと、幡野さんを見ていたから実行することができた。
幡野さんの投稿を見ていなかったら、丸腰で呪いの言葉をかけられて、今頃後悔で苦しんでいたかもしれない。
最後に
相手が善意で送ってきたことが分かっていただけに、対応には悩んだ。
最初は黙殺しようとしたけれど、切り刻まれた心がずっとズキズキしていたので、とても嫌な思いをしたことを率直に伝えさせてもらった。
おかげで、この件については心の決着がついて、相手に対しての悪い感情も全く残っていない。
この方々とはその後連絡を取っていないが、母の死の前も数年間連絡を取っていなかったので、普段通りに戻っただけである。
ただ、もしかしたら「しずかさんが点滴を拒否したせいで、お母様が亡くなったんですよ」なんてどこかで言われているかもしれないなと思って、ちょっと微妙な気持ちになることはある。