「愛する」と「愛される」のどちらが幸せ?の私の答え
愛する?愛される?
自分が愛している人と付き合うのと、自分を愛してくれる人と付き合うのでは、どちらが幸せなのだろうか?
20代の頃はこんなことをよく考えていた。
20代の私
私の気持ちが大きすぎて、追いかける側になったこともある。でも疲れてしまった。
その反動で、追いかけてくれる人と付き合ったら、つまらなくなってしまった。
そこでまた追いかけて、でも疲れて、そして…。
こんなことを繰り返していた。
それから長い年月が経ち、今たどりついた結論はこれである。
「大好きな人に、大好きと言えることが、幸せ」
子供の頃の私
子供の頃を思い返してみた。
両親は一人娘の私のことを、今も昔も愛してくれている。
でも、子供の頃は辛かった。
早く家を出たくて出たくてしょうがなくて、高校を卒業したら家を出ると、ずいぶん早くに決めていた。
そして「あと5年で家を出られる」「あと3年の我慢だ。」「あと1年だ。」と、その日を指折り数えて待っていた。
しかし、親は私のことを愛してくれているのに、こんな気持ちになる自分に罪悪感があった。
どうして自分が家を出たいと望んでいるのか、自分でも分からなかったのだ。
今なら分かる。
母親は子供が甘えてくることを好まない人だった。(父親はほとんど家にいなかった)
3~4歳の頃、「お母さん、大好き!」って言ったら、「ダメ。」と突き離された。
それ以降、私は親に「大好き」と言えなくなった。
そして大好きな人に「大好き」と言えないことがストレスになり、心に溜まっていったのだ。
大人になった今では、母親の気持ちもわかる。
彼女自身が自分の母親とうまくいっていなかった人なので、親に甘える子供を見るのが辛かったのだろう。
私自身も、親に甘える子供を見ると、腹立たしくてしょうがなかった。
「私はいい子にしても甘えられないのに、どうしてあの子はあんなに泣き喚いていても親は構ってあげるわけ?」
私を存分に甘えさせてくれる夫に出会うまでは、私もこういう気持ちを抱えていた。
ほとんど家に帰らない父に頼らず、一人で子育てに奮闘していた私の母が、私に対して、こういう気持ちを抱いたとしても、しょうがないことだと思う。
理解したからといって、大好きな人に大好きと言えなかった悲しみが、全て消え去った訳ではなかった。
大人に差し掛かった頃の私
大人になって恋をしても、大好きな人に「大好き」って言うのは、照れくさく、難しかった。
大好きと言って拒絶されたらどうしようと考えて、片思いでいるのが幸せと思ったりもした。
それでも短期間はいいのだけど、その状態に疲れたり辛かったり物足りなくなってしまったりするのは、何かが足りないからだったのだろう。
愛とは無償なもの、見返りを求めてはいけない、という。
ある面ではその通りで、「見返りがないから愛されていない」と思うのは、愛に対しての完全なる誤解だった。
しかし、いくら無償だといっても、受け止めてもらえない愛ほど苦しいものはない。
そのときは、ちゃんと傷ついて、悲しんで良かったのだ。
でも、愛とは無償なものだと思い込もうとしていた私は、傷つき悲しむ自分が悪いのだと考えていた。
愛に疲れ、愛に義務感を感じ始めたなら、そこから離れて心を落ち着かせる方がよっぽど健康的だったのに、一方通行の愛にしがみつき、もがき苦しんだりもした。
そして、今
愛がどうだと肩肘張って考えずに、自然に一緒に時を過ごせる夫と結婚して、10年近く経つ。
寝ている夫の耳元で「大好き」って言ってみたら、「はひはほー」って返って来た。
ありがとう、と私には聞こえた。
睡眠の邪魔をしてもイヤな顔せずに私の気持ちを受け止めてくれる人がいる。
愛してる、とか、愛されてる、とかだけではなくて、私が愛することを許してくれる(しかも喜んでいるようだ!)人に出会えた。
ここまでの状態になって、初めて私は心の底から幸せを感じることができた。
贅沢だけど、一方通行の気持ちじゃダメだったのだ。
あの頃の私に
愛するのと愛されるのとどちらが幸せなのだろう?と悩んでいたあの日の私に、今ならこう答えるだろう。
人と人との関係は一方通行なものではないから、どちらかということはないんだよ。
自分の気持ちに向き合って、喜びも悲しみもあるがままに受け止めなさい。
そして、心を通わせられる人を探しなさい。
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