笑顔でバイバイできるまで帰らせてくれなかった先輩の話
これは寒い冬の日のお話です。
当時私が勤務していた会社は、グループ会社の経理課員同士つながりがあって仲が良く、 仕事で困った時は力を貸しあっていたし、プライベートでもよく飲みに行っていた。
親会社の先輩すえちゃんには、特にかわいがってもらった。
すえちゃんは連結決算のリーダーだったから、会社は違ったけれどよくやり取りがあったのだ。
とても優しかったが、その優しさに甘えて愚痴をこぼすと厳しく叱られた。
あまりに厳しいことを言うので、泣いたり拗ねたりしたこともあった。
きついことを言うくせに、私が泣くと、泣きやむまで絶対傍から離れなかった。
拗ねて「1人になって頭を冷やしたい」と言っても、「あかん」と帰らせてくれなかった。
私が気を取りなおして機嫌を直すまで、ずっと傍にいた。
あるとき、すえちゃんの上司にあたる先輩から聞いた話に衝撃を受けた。
「すえちゃんって、前に心臓が破裂して死にかけたんだよ。
何日も意識不明で医者にあきらめてくださいって言われたんだ。
でも奇跡的に意識を取り戻した。
しばらくは半身不随だったんだけど、必死でリハビリして今くらい動けるようになったんだよ。
すえちゃんの胸には今も人工心臓が入ってるから、あまり無理してほしくないんだ。」
軽妙に皆を笑わせることが大好きなすえちゃんにそんなことがあったなんて信じられなかった。
でも本人に聞いたらその通りだと言う。
すえちゃんから改めて当時の話を聞いて本当のことだと理解したけれど、唯一理解できなかったのは、そのとき必死になって看病してくれた彼女と別れてしまったことだ。
すえちゃんはその時点ですでに30代半ばだ。
「死ぬか生きるかの瀬戸際でもそばにいてくれた彼女とどうして結婚しなかったの?」
そんなことをいう私に、すえちゃんは少し怒った顔で、「お前には話せない理由があんねん。」と言った。
それから数年が経っても、私はすえちゃんとたまに会っては、怒られたり笑わせてもらったりの日々だった。
そんなある日、親会社の経理メンバーからメールが届いた。
メールのタイトルは「訃報」。
すえちゃんの急逝を知らせるメールだった。
亡くなったってどういうこと!?
すえちゃん、たった2日前に「今年も決算よろしくね」ってメールをくれたんだよ!?
訳が全く分からず泣き崩れる私に、親会社の人たちが「俺たちもこうなって初めて知ったんだけど・・・」と事情を教えてくれた。
人工心臓には寿命があること。
でも、すえちゃんは心臓の血管が弱くて、人工心臓に寿命が来たとき新しいものに取り替える手術に耐えられない可能性が高かったこと。
それ以前に、人工心臓の寿命が先か血管の寿命が先か分からないと言われていたこと。
そして、今回は人工心臓と血管の繋ぎ目に限界が来て破れてしまったこと。
寒い冬の日だった。
すえちゃんは外出していて、一人で道を歩いていた。
突然に大量の血を吐いたすえちゃんは、自分で救急車を呼んだ。
次に、会社に電話を入れた。
「何でお前鼻声なの?」ときく上司にこう答えた。
「すいません、今、血を吐きました。また心臓です。今回はたぶんダメです。ごめんなさい。」
その次に親に電話をした。
そして短い生涯を終えた。
こんな冷静に挨拶の電話をかけられるなんて…。
きっとすえちゃんは、自分の命が長くないことを、ずっと前から知っていたのだ。
そして、それを誰にも言わずに一人で抱えていた・・・。
こうなることが分かっていたから、必死に看病してくれた彼女と結婚しなかった。
彼女を先に置いていくことが分かっていたから別れたのだろう。
なんという精神力なのか。
すえちゃんの家に大量に残されていたコーヒー牛乳の瓶を片づけながら、上司も涙が止まらなかったそうだ。
私が最後にすえちゃんに会ったのは、亡くなる2か月前だった。
すえちゃんはダーツにはまっていて、時々一緒にダーツバーに出かけた。
その日は私の後輩と3人でダーツに興じたのだが、すえちゃんは、なんというか、父というか神というか、恋やら愛やらを超越した果てしない愛情が体からあふれていた。
すえちゃんの訃報を聞いた時に、真っ先に思い出したのはこのことだった。
あのとき、すえちゃんは、自分の死期が近いことを察していたのだろうか?
その後、もう一つ思った。
私と会うとき、すえちゃんはいつも(これが最後かもしれない)と思っていたのかもしれない。
私の愚痴なんて適当にあしらって聞き流す方が楽だっただろう。
でもひねくれた思考を注意する機会はもうないかもしれないと、厳しく叱ってくれたのだろう。
そして、気まずいまま二度と会えないことにならないように、私が気を取り直すまで傍にいたのだろう。
最後の記憶に残る顔がお互い笑顔であるように、私が笑えるようになるまで待ってからバイバイするようにしてたのだろう。
すえちゃんのお葬式なんて、出たくなかった。
すえちゃんが死んだなんて、信じたくなかった。
でも同僚が私を引きずり出して、お通夜に連れて行ってくれた。
通夜振る舞いの席で、すえちゃんの親戚の方に声をかけられた。
「あの子の好きだった歌を教えてください。よくカラオケで歌っていた歌があれば、それを。」
カラオケ!
すえちゃんがいるカラオケはとてもとても盛り上がった。
歌詞をその場に応じて即興で変えて歌うのが上手くって、すえちゃんが歌うと全員大爆笑だった。
その場面を思い出すだけで、また涙が溢れてしまう。
そんなすえちゃんがいつも歌っていた歌は…。
真っ先に思い浮かんだすえちゃんの十八番を答えた。
「妖怪人間ベム、ですね」
親戚の方は私の答えを聞いて溜息をひとつついた。
「出棺のときにかける曲を決めなくてはいけないのですが、どなたに聞いても‘魔法使いサリー’とか‘月月火水木金金’とか似つかわしくない曲ばっかりで…。」
ああ、確かによく歌ってた!
でも、出棺でそれはないわ!!
涙と笑いが同時に吹き出して顔がぐちゃぐちゃになった。
そして、気がついた。
すえちゃんは決して私を泣いたままにはしなかった。
どんなときも私が笑うまで傍にいた。
すえちゃんは、いつだって、笑顔でバイバイさせてくれるのだ。
そう言ったら、「お前のためにそんな気をつかうわけあるか、アホ!」と一蹴されそうだけどね。