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『ありのままの私』東大教授の安冨歩さんが語る暴力、差別、性同一性障害について


安冨歩さんの『ありのままの私』は、本の帯に男装時代と女性装時代の写真が載っており、表紙を見るだけでもインパクト十分だ。
この本には、性器の形状は男性として産まれた安冨さんが、自分は男性のふりをしていると気づき男装を止めて女性装に切り替える過程の話と、研究テーマの日本社会にはびこる抑圧という暴力の正体についての見解が書かれている。

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東大教授が男装を捨てるまで

女性ものの服を着始めた当初は男性服の置き換えとして女性服を着始めた安冨さんが、スカートを履いて外出したり職場に出掛けたりするようになるまでのステップがとても面白い。
洋服を選ぶコツや、ヒゲの脱毛の話など、その過程の写真とともに書かれていて、何度も写真を見比べては感嘆のため息をついた。
正直に言うと、50歳を過ぎてから美しくなることを追求しはじめた安冨さんとその過程に刺激を受けて、私も美しくなりたいと思ったほどだ。

女性装による心の変化

そのときに起きた心の変化も書かれている。

安冨さんが女性ものの服を着始めたきっかけは、太腿と腰が太くウエストが細い安冨さんの体型に合う服を探したことだった。
最初は体型に合うということと、種類の豊富さ、値段の手頃さ、素材や服の形状による機能性に喜んでいた安冨さんだが、ある日、女性ものの服を着ているとただならぬ安心感を抱いていることに気づく。
その安心感の源を探してみると、両親との関係に思い当たった。

安冨さんは幼い頃、両親から「そんな弱虫では、兵隊に行けないぞ!」と言われていたらしい。(安冨さんは現在50代前半、もちろん戦後の生まれである)
規律に縛られた組織に行くことが心底嫌だという思いが、大人になっても無意識下に残っていたらしいのだ。
それが、女性装をすることで「もう女の子だから、兵隊に行かなくっていいんだもん!」と安心できたのだ。

両親との関係によって子供の頃に植え付けられた感情が大人になっても残っていて自分を支配し続けるということは、誰にでも起こりうることで、その支配から解放されることが自分を取り戻すことに繋がる。
自分を取り戻すと、精神的にとても楽になる。
安冨さんの場合、アレルギー性鼻炎が軽減したり歯ぎしりがなくなったりなど、肉体的にも変化が出たというのだから、よっぽどだ。

全ての暴力の根源である 「立場主義」

私が興味を持った「立場主義」について、分かりやすく説明がされていた。
長くなるが、引用する。

P110
日本社会は「立場」でできていて、人間はその詰め物にすぎない。立場には役が付随しており、ある立場に立った人間は、その役を果たさなければならない。役を果たせば立場を守ることができるが、果たせなければ「役立たず」となって、立場を失う。立場を失った者は、「無縁者」となって人々から庇護されなくなるが、同時に自由を獲得する。

日本人の大半は「立場主義者」であって、日本国は実のところ「日本立場主義人民共和国」なのです。
この共和国の憲法は以下の三条です。
1.役を果たすためには、何でもしないといけない。
2.立場を守るためなら、何をしてもいい。
3.人の立場を脅かしてはならない。
この三条憲法を守っていれば、日本では安全に暮らせます。

言われてみると、人が持つ「立場」とそれに付随する「役割」についての戯言はいくらでも思い当たる。
「女の子なのだから、おとなしくしなさい。」
「新入社員にはフレッシュな発想を期待しています。」
「母親は、子供が3歳になるまで家にいるべきだ。」

ここまで極端でなくても、自分が縛られている「役割」もいろいろ思い当たる。
「妻たるもの、最低限の家事はしておこう」
「管理職だから、部下が帰るまでは会社に残ろう」
「長男の嫁として、年末年始は帰省しなくては」

ああ、なんて息苦しい!!

なぜ「立場主義」が蔓延しているのか

日本にここまで立場主義が蔓延している理由として、先日の講演でこう話されていた。
「ものを生産することが日本の経済成長の肝であった時代は、工場で機械が作動し、その結果の確認と修正を人間がやっていた。
機械を動かすためには、多くの人間が身を投げだして与えられた自分の役割を守る必要があった。」

つまり日本の経済成長のためには、人間に立場を与え、その役割を守ることを子供の頃から教え、「自分」よりも「立場」の方が大切だという価値観を植え付けることが必要だったのだ。
急激に経済が成長していたので、多くの人々が疑問を持たず、この価値観を受け入れていった。
ところが現在では、コンピューターの発達により、人間の仕事であった確認と修正をコンピューターがするようになった。
こうなると実はもう、人間は役割を守る必要がない。

しかし立場がいちばん大切だという価値観を植え付けられている人は、簡単にはその価値観を捨てることができない。
その価値観を持つ人は、人が役割を守らないと秩序が乱れると信じている。
そのために現在の社会ではもう必要がないにも関わらず、「立場」「役割」を守ることを強制しているのだ。

「立場主義」が全ての暴力の根源である理由

必要がないものを強制されることほどストレスが溜まることはない。
安冨さんは、これが全ての暴力の根源だという。

役割を強制される、つまり自分自身ではないものになることを強制される。
そうするとストレスが溜まる。
ストレスが溜まると、人に八つ当たりする。
八つ当たりされた人は、役割を強制されることで発生した元々持つストレスに加えて、八つ当たりされたストレスを持つ。
大きいストレスを持つことで、人に強く八つ当たりする。
こうして雪だるま式にストレスが膨らんだ結果、犯罪や差別や環境破壊などといった様々な形の暴力が生み出されているのだ。

安冨さんは、こう言っている。

p17
自分が「自分自身でないもののフリ」をして我慢していると、他の人が「自分自身でないもののフリ」をしていないと、腹が立ちます。なので、他人にも同じことをするように強要します。

>p111
日本人がこの立場主義から抜け出すことが必要であり、そのために一人ひとりが自分自身に立ち戻り、鈍ってしまった感覚を再生すべきだ

暴力が蔓延する負の連鎖を断ち切るには、まず自分が「自分自身でないもののフリ」を止めることが必要なのだ。
そのためには、自分自身を取り戻すことが必要である。
「役割」「立場」を生きるのは理性の役割だ。
自分が無意識に生きている「役割」「立場」を外すことは、自分の感性を取り戻していくことである。

感性1st、理性2nd。
これが自分自身が生きやすくなるだけでなく、社会全体が暴力のない生きやすい世界になる鍵であるのなら、もっともっと追求していこう。

差別がゆえの自由

「立場主義」の説明の中で「無縁者」という言葉が出てきた。

役を果たせば立場を守ることができるが、果たせなければ「役立たず」となって、立場を失う。立場を失った者は、「無縁者」となって人々から庇護されなくなるが、同時に自由を獲得する。

このことについて、タレントのマツコ・デラックスを例に一歩踏み込んだ考察が書かれている。

ヒエラルキーの内と外

マツコ・デラックスは『デラックスじゃない』という著作の中で、歯に衣着せぬ発言によって人気を得ていることについて、こう言っているそうだ。

「男も女も敵同士なんだよ。同性も異性も敵なのよ。その点オカマは、いい言い方をすれば中立、悪い言い方をすれば、仲間はずれなのよ。そんな仲間外れの人間が言うことなんて、男にとっても女にとっても、痛くも痒くもないわけよ。」
「アタシはヒエラルキーの中にすらいないのよ。どんなにコッチからケンカを売っても、利害関係もない「部外者」だから、本気でかかってこないのよ。」

この文章を読んで、私は1980年代後半からテレビに多く出始めた外国人タレントを思い出した。
ケント・デリカット、ケント・ギルバート、チャック・ウィルソン、ダニエル・カール、デーブ・スペクター…
当時は、彼らが「本質を突くことが許されるヒエラルキー外の存在」として重宝されていたように思う。
ハーフというだけで虐められていた子がいるくらい、日本人は「血」にこだわる傾向がある。
外国人をひとくくりにして「外人」と呼び、日本人という仲間から外れた「部外者」「無縁者」としていたのだ。

日本に住む外国籍の方が増え、インターネットで瞬時に情報が世界中に共有されるようになった現在では、外国の方をヒエラルキー外の存在と明示することに自制心が働いているのであろう。
そのため新たなヒエラルキー外の存在を探した結果、男でも女でもないオネエタレントに行き着いたのだと思われる。
なにせ、生まれる前から性別を気にするくらい、男か女かも重大な区別の要素なのだ。

こうしてマツコ・デラックスは、「ヒエラルキーの外」という嫌われずに本音を吐けるポジションに収まった。
このことを、かわいそうに思うか、自由で羨ましいと思うかで、自分がどれだけヒエラルキーに依存しているかが分かるかと思う。

性同一性障害は病気なのか?

性同一性障害という言葉がある。
身体的な性別と性自認が一致しない人に対する医学的な疾患名だそうだ。
医学的な疾患…つまり、病気として扱われているのだ。

性別と秩序

子供が生まれたら男集団と女集団に振り分けて、それぞれの集団にふさわしい振る舞いをするように圧力をかける。
これが秩序の基盤だと多くの人々が認識している。

男性器を持って生まれた人が社会的には女性として生きたいと考えることはヒエラルキーの外に出ることであり秩序を壊すことなのだ。
そこで、その意識を「障害」として病にしてしまうことで、「病気なんだから秩序を乱すのもしょうがないね」として受け入れる。

この「病気」の人が、社会的に身体的な性別とは違う性別として扱われることを希望した場合、日本においては下記の要件を満たした場合に戸籍の性別変更が行われる。

一  二十歳以上であること。
二  現に婚姻をしていないこと。
三  現に未成年の子がいないこと。
四  生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。
五  その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

引用元:性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律、第三条

これの四と五にとても驚いた。
・生殖機能は持ってはいけない。
・性器の形状を変えなければいけない。

もちろん、男性器が欲しい女性や、男性器に愛着が持てない男性が、自主的に性器の形状を変更することは大切で必要なことである。
しかし、安冨さんのように、性自認は女性で恋愛対象も女性である場合(安冨さんは自身のことを「トランスジェンダーでレズビアンの男性」と分類している)、今の身体のままであれば愛する人との間に子供を授かることも可能だ。

だが、こういうトランスジェンダーでレズビアンの男性が戸籍上の性別を変更したいと願った場合は、生殖機能を失わなければいけない。

性同一性障害は「異常」なのか?

「性自認と社会的認識を合わせたい。」「愛する人との子供が欲しい。」
この2つの当たり前の願いを同時に叶えることが出来ないのは、なぜなのだろうか。
そして、生殖機能のない性器の見た目を変えることを強制するのは、なぜなのだろうか?

性同一性障害の「治療」やそれに伴う戸籍の変更は、性同一性障害という「病人」を、「男性器を持つ人は男らしくありなさい。女性器を持つ人は女らしくありなさい。」という世の中の秩序に当てはめるためにある、としか考えられない。
トランスジェンダーでレズビアンの男性は、治療をしても、「男性器を持つ人は男らしく」という秩序に当てはまらないので、「治療」の対象にはならないのだ。

上記に一部を引用した『性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律』の提案趣旨内には、「性同一性障害者の社会的な不利益を解消する〜」といった文言が見られるが、結局のところは「あなたは異常だから、この世の秩序に合うように身体を改造してね」というのが本音なのではないかと考えざるを得ない。

まとめ

この後編に該当する部分は非常に興味深かったため、安冨さんの本から飛躍した内容の記事になってしまった。
マツコ・デラックスと無縁の原理についてや、性同一性障害については、『ありのままの私』の本文内で、もっと噛み砕いて解説されている。

この本を読んで、人間がどれだけ「区別」され、そこから生まれる「立場」に根深く支配されているかに気がつくことができた。
人間の作り出した今ではもう必要のない支配に縛られていること、そして多くの人がその事実に気がついてないことを恐ろしく思う。

最後に、第6章美しさとは から、印象的な言葉を引用する。
私も「立場主義」から抜け出して、美しくなりたい。
そして、世の中の人々が皆「立場主義」から抜け出すことができたら、どんなに美しい世界が待っているのだろうか。

美しさとは、作るものではありません。掘り出すものです。自分自身という金鉱を探し出して掘り当てる。そうすると人は、美しくなるのではないでしょうか。
美しくなるために最も大切なことは、自分自身を生きることなのです。
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