住民のいない町。震災から11年後の福島県双葉町訪問記。
2022年8月11日、福島県の双葉町を訪問した。
双葉という地名に馴染みのない人でも、福島第一原子力発電所のある町と言うとピンと来るかもしれない。
2011年3月11日のあの地震をきっかけに起きた原子力発電所の事故によって町内全地域の住民に避難指示が出され、いまだに町のほぼ全域において人が住むことを許されていない、住民のいない町である。
双葉町の立入状況
双葉町は、避難指示解除区域と帰還困難区域に分かれている。
更に、帰還困難区域の中に立入規制緩和区域がある。
・避難指示解除区域:制限なく滞在することが可能なエリア
・立入規制緩和区域:短時間の立ち入りが可能なエリア(長時間の滞在の際は長袖長ズボンとマスクが推奨されており、宿泊は不可)
・帰還困難区域:立ち入るためには町の許可が必要なエリア(幹線道路のみ通行可能)
私の下手な絵で恐縮だが、2022年8月11日時点の基準をもとに、双葉町をエリアごとに色分けすると下記のようになる。
緑:避難指示解除区域
青:立入制限緩和区域(帰還困難区域だが制限が緩和されている)
黄:帰還困難区域
上記の地図の緑の部分からわかるように、制限なく自由に滞在することが可能なのは、海の近くの一部エリアと双葉駅(JR常磐線上にある緑の四角)と両者を結ぶ道路一本だけの狭い範囲である。
帰還困難区域の中でも重点的に復興を目指す地域である立入制限緩和区域(青い部分)では、集中的に除染作業やインフラ整備が行われているが、こちらも町全体の面積から見ると、ごく一部だ。
双葉駅から海までは約3km。
歩いても30分程度の狭いエリアであるが、ようやくここまで、たどりついたのだ。
そして、2022年8月30日に、立入制限緩和区域も制限が解除される予定となっている。
双葉駅周辺
双葉町唯一の鉄道の駅である双葉駅に降り立った。
この駅は震災直後から9年後の2020年まで閉鎖されていた。
2020年の常磐線営業再開のときの記事↓
双葉駅の改札を出ると、まず注意事項の看板がある。
双葉駅には東口と西口の2つの出口があるが、通行可能なのは東口のみだった。
なお、西側では、復興住宅の建設が進んでいる。
二階建てだろうか、敷地は広い。
駅の外に出る。
この写真にある広場が、駅前の自由に滞在できるエリアだ。
振り返って駅舎を眺める。
2020年の常磐線再開に合わせて作られたシンプルな建物だ。
写真の右下、街灯の後ろにシェアサイクル置き場がある。(写真では全台出払っている)
写真の左側にあるオレンジ色の建物は震災前まで使われていた旧駅舎。
今はコミュニティセンターとして使われている。
コミュニティセンターに立ち寄る。
ここには震災からの歩みといった資料がある。
自動販売機もあるので、飲み物を持っていない人はここで調達だ。
町内にはコンビニやスーパーといったものは一切ない。
稼働している自動販売機も、このコミュニティセンターと、交流センターと、町内唯一のビジネスホテルの中にしかない。
町内には通行人はいないため、困った時に助けを期待するのも難しい。
買える場所で買っておくことが大切だ。
飲み物以外に、ここで貰っておくべきものがある。
それは、この地図。
この地図がとても役に立った。
コミュニティセンターの方々は驚くほど親切だった。
私に必要なものがないかを気にかけてくれ、飲み物等の心配をしてくれた。
コミュニティセンターの展示を見ているうちにシャトルバスを逃した私に、シェアサイクルを用意してくれた。
シェアサイクルが全台出払っていることは気づいていたが、歩いて回るつもりで確信的にバスを逃したのに、熱中症を心配してくれて、整備中の自転車の整備を終わらせて用意してくれた。
この「驚くほど親切」という感想は、この先出会う人全てに感じることとなる。
立入制限緩和区域
せっかく自転車を借りたので、あちこちを見て回ることにした。
双葉駅周辺
駅の周りは、長時間の滞在ができない立入制限緩和区域で、この辺りは津波は到達していない。
しかし、地震直後に避難指示が出され、その後長い間立入りが禁止されていたため、建物が地震が起きた当時のまま残っている。
ただ、木が伸び放題に伸び、駅前とは思えない田舎の道になっている。
下記の写真は、駅から徒歩30秒ほどの場所だが、その雰囲気はない。
通行人も車もいなく、どこまで行っても一人だ。
上記の道を少し進むと、東京電力の双葉独身寮があった。
こちらも木が伸び放題に伸び、建物の2階部分まで覆われている。
住宅街の様相を残している場所に着いた。
こちらの家は建物が跡形もなく無くなり、きれいに整備されている。
洒落た柵を見ると、素敵な家が立っていたのではと想像できる。
こちらの家は、手付かずのまま残されている。
玄関に靴が放置され、11年前まで人が住んでいた気配が生々しく感じられる。
家の中がめちゃくちゃなのは、地震と年月の影響だけではなく、イノシシが入ってきて食料を探して荒らすからだそうだ。
国道に向かう。
郵便局があった。
何の変哲もない、オーソドックスな郵便局だ。
井ノ原快彦のポスターもすっかり色褪せているが、どこかで見た覚えがある。
こういう馴染みの建物を見ると、あの地震が来るまでは、人々の日常が営まれている町だったということがよく分かる。
家があり、郵便局がある、日本のあちこちにありそうな町だと気を抜くと、こういう看板が出てきて驚かされる。
双葉町には稼働している消防署がないため、火事があっても消防車が来るまでに時間が掛かるからだろうか。
商店街
商店街があったところに移動する。
300年続く酒蔵、「白富士」を造っていた富澤酒造店だ。
今はシアトルに拠点を移して酒造りをしているらしい。
資生堂の化粧品を扱っているお店を見つけた。
ここに来るのは初めてなのに、水色の看板に懐かしさを感じる。
1階部分がぺシャンと潰れたまま残されていた。
放射線計
町のところどころに、放射線計が置いてある。
最初に見た時に、多いのか少ないのかさっぱり見当がつかなかった。
観光庁の資料によると、世界の平均は 0.099μSv/hだそうだ。
日本の他の地域は、東京で 0.048μSv/h、京都で 0.06μSv/h。
ニューヨークで 0.094μSv/h、香港で 0.110μSv/h。
下記の画像は、この立入制限緩和区域のもの。
放射線量は0.154μSv/h。
世界平均よりは多い。
なお、原発事故直後の原子力発電所近くは11,930μSv/hだったそうだ。
除染作業のおかげで、当時の約10万分の1まで下がっている。
帰還困難区域
冒頭にも書いたように、双葉町内で立入可能なエリアはまだ少ない。
帰還困難区域の立入不可のエリアは道路が封鎖され、入ることはできない。
自転車で少し走るとすぐに通行止めになるので、RPGの世界に迷い込んだように感じた。
道は見えているのに進めない。
帰還困難区域内にも放射線量計があるのが見えた。
カメラのズームを最大にしてみた。
0.361μSV/h。
立入制限緩和区域の2倍以上、世界平均の4倍近くだ。
自転車で2分ほど走っただけで、ここまで数値が変わる。
これが除染の効果なのだろうか。
なお、このフェンスの向こうは、中間貯蔵施設がある。
双葉町の中間貯蔵施設は、除染に伴い発生した土壌や廃棄物等を最終処分まで貯蔵するために建てられた。
除染で取り除いた土や塵だけでなく、使用した水も垂れ流しにはできないため、この施設に保管される。
避難指示解除区域
暑くなってきたので、体力があるうちに、避難指示解除区域に向かうことにする。
中野地区
2020年に避難指示が解除されていた双葉駅から中野地区に向かう道は、整備が進んでいる。
途中に頑丈そうな蔵が残っているのを発見した。
しっかりと石が積まれた蔵だが、壁がずれていた。
どれだけ激しく揺さぶられたのだろうか。
揺れの大きさを感じさせられた。
津波の被害があったあたりに来ると、建物が一切なくなり、ただ広々とした野原が広がっている。
このあたりは、もともと営農地帯だったようだ。
津波が押し寄せ、住宅は大きな被害を被った。
優先的に家屋が取り除かれ、整備がされ、広々とした野原となった。
更に海の方に進むと、会社があった。
このあたりは産業拠点となるエリアだ。
住居は駅の周辺に整備し、海に近いこのあたりは産業拠点として法人の誘致を進めている。
推測だが、このあたりの土地は安いのだろう。
法人の社屋は平屋建てで、とても広い。
下記はアイワビルド社。
不動産業と建設業を主にやっている会社だそうだ。
下記は株式会社エナジー。
震災以前から双葉町にあった建設業の会社で、発電所の配管工事などを行っている。
中野地区には、現在の双葉町唯一と言っていい観光施設である東日本大震災・原子力災害伝承館と双葉町産業交流センターと、この日の宿泊場所のビジネスホテルがあるのだが、長くなるので違う記事で書いていく。
そして、2016年にこのあたりを訪問した方のレポートを見つけた。
同じ道を通ったものと思われるが、見比べると復興を感じられるので、ぜひこちらも見て欲しい。
海沿い
海は高い堤防で遮られて見ることはできないが、堤防を登ることはできる。
海沿いの道をほんの少し走ると、またすぐに通行禁止となった。
この先、5km足らずのところに、福島第一原子力発電所があるため、立入禁止である。
立入禁止のフェンスの隣にも放射線計があった。
写真は見難いが、0.083μSv/h。
世界平均より低い。
この日、私は双葉町に宿泊した。
住民のいない町の夜は、深く静まり返っていた。
テレビの天気予報では「福島県内はこの夏で一番寝苦しい夜となるでしょう」と言っていた。
でも、双葉の夜は海からの風が吹き続け、外に出ると少し肌寒さを感じるほどだった。
十三夜の月が強く明るく輝いていた。
こんなにも月が強く輝いているのに、天の川がわかるほど、星も輝いていた。
これから住民が戻ってきたら、夜の景色も変わっていくだろう。
この月や星が輝く夜空が、人が団欒する明かりで照らされるときが、いつか戻ってくるのだろう。