「叶うべき夢の先」にある人生を夢見てみる
この記事を書いているのは、2022年のオリックスvsヤクルトの日本シリーズ第4戦の翌朝だ。
昨日は、一方的にヤクルトにやられていたオリックスがなんとか一矢報いることができた。
オリックスの応援歌に「讃丑歌(さんちゅうか)」というものがあり、歌詞の「叶うべき夢の先へ」というフレーズがとても好きだ。
「野球は人生そのもの」と思う私にとって、この歌は野球の応援歌に止まらず、人生の応援歌でもある。
夢の先にあるものは何か、歌う人それぞれに思いがある。
ここには、私の思いを残しておきたい。
讃丑歌
讃丑歌は、試合のちょうど中盤の5回裏の攻撃前に歌われたり、チャンスの時に歌われたりと、気合を入れ直すタイミングで歌われることの多い応援歌だ。
なお、余談だが、この歌はガガガSPとオリックスの応援団との合作で、一般向けの歌詞のガガガSPバージョンもすごくいいので動画を置いておく。
そして、オリックス応援歌としての讃丑歌は応援団のメンバーが歌詞を書いている。
高らかに響け 我らの歌声よ
届け 熱きナインの心まで
打てよ 走れよ ひたすら前見て
叶うべき夢の先へ
(讃丑歌 大阪紅牛会)
この「叶うべき夢の先へ」というフレーズがとても好きなのだ。
叶うべき夢の先にあるもの
プロ野球で言えば、叶えたい夢は優勝だ。
人生でいえば、叶えたい夢は人それぞれあるだろう。
では、その夢の先にあるものは何なのだろうか。
私は2つの意味を受け取っている。
プレーヤーにとっての夢の先
1つは、プレーヤー目線。
夢が叶っても叶わなくても、人生は終わらないという事実だ。
小説や漫画であれば、主人公が夢を叶えてクライマックスを迎えたところで、話は終わる。
だが、実際の人生はその後も続く。
夢を叶えることはゴールにはならず、日常生活は続いていくのだ。
それでは夢に向かうことが無駄なことかというと、私は全くそうは思っていない。
日々の生活は淡々としたものであっても、夢中になって駆け抜けた時間や悩んで泣いて苦悩した時間が心と体に残す痕跡は大きい。
希望が見えてきた瞬間に感じた光は、その後の人生の道標にもなってくれる。
こういった経験が人間の厚みとなって、人生を充実させてくれる。
そう、夢が叶っても叶わなくても、その後の人生に深みが生まれるのだ。
夢が叶うことはゴールではなく、叶わないことが人生終了を意味するものでもない。
いずれにせよ、人生は深みを増して続いていくから、だから夢の先を目指して、夢を追いかけよう。
私はこういう意味に受け取っている。
観客にとっての夢の先
もう1つは、観客目線。
この歌を歌う我々は、グラウンドを見つめる観客にすぎない。
観客も贔屓チームの優勝と日本一を夢見ているが、これは他力本願の夢だ。
選手の力になれるようにと願って応援するが、実際に球を投げ、打ち、守るのは選手たちで、観客は祈ることしかできない。
観客はグラウンドに夢を見る。
そこで戦う選手たちを見て、力をもらう。
その力を、次は、自分の力で叶える夢に注ぎ込むのだ。
優勝という夢に向かって戦う選手たち。
その選手を通して優勝という夢を見る観客たち。
その力が、観客それぞれの夢を叶えるために使われて。
その夢を叶える道のりが、また誰かにとっての夢に向かう力となったなら。
とても大きな夢の連鎖が生まれていく。
私が受け取ったもう一つの「夢の先へ」は、この夢の連鎖だ。
こうやって、日本中が、世界中が、夢を叶える力で満ちたら、どんなにか素晴らしいだろう。
そして今日も夢を見る
私は今年の日本シリーズも、七戦全部を現地で見届けるつもりだ。
何なら、第八戦の日程も空けている。
オリックスが劣勢な状況ではあるが、結果がどうであれ、ここで受け取った力を、次は私の夢を叶えるために使っていきたい。