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ALSで家族を亡くした私が、自殺幇助問題について思うこと


「これから先は、何があっても救急車を呼ばないでくださいね。救急車を呼んだら人工呼吸器を付けられてしまいますから。一度人工呼吸器を付けたら、もう外せないですから。」

病人が人工呼吸器を付けないことを選んだとき、看護師はこう言った。

ALS(筋萎縮性側索硬化症)の余命

遠方に住む家族がALSという病気になった。
診断された当初、余命は2年か5年と言われた。
2年〜5年ではない。2年or5年である。

この2年と5年の差は、人工呼吸器を付けるか付けないかによるものだ。
ALSとは、脳の命令が筋肉に伝わらなくなる病気で、全身の筋肉が萎縮し、筋力が低下していく。
全身の筋肉が動かせなくなるのだが、呼吸をするための筋肉が動かなくなった時、死を迎える。
しかし、呼吸筋を人工呼吸器で補えば、延命が可能なのだ。

少しでも長生きできるなら、人工呼吸器を付けようよ?
そう思ったが、そんなに単純なことではないらしい。

ALSの恐ろしさ

ALSは全身の筋肉が動かせなくなっていく病気だ。

診断がくだされたとき、本人は、喉の筋肉に障害が起き、話すことや食べることが困難になっていた。
筆談で会話をするのだが、その手も、会うたびに動きが悪くなっていた。

症状が進んだら、まばたきや眼球のわずかな動きで反応する装置を使って意思疎通をするようになるらしい。
そして、目を動かすことも、やがて出来なくなっていく。
そうなったら…。

ALSの厄介なところは、脳の障害は運動に関わるところだけに起き、感覚や思考の部分には異常が起きないことだ。
意識がはっきりしたまま、ただ身体だけが動かせないのだ。

病人の選択

病人は、人工呼吸器を付けないことを選んだ。
恐れていたのは、死ぬことではなかった。
死よりも恐れていたことは、意識がありながらにして動けなくなることだった。

ALSは筋肉が動かなくなるが、意識や神経には異常が出ない。
だから痛みをそのまま感じる。
それなのに、その痛みを周囲に訴えることはできない。

尿意や便意も普通にある。
けれども、それを周囲に伝えることはできない。
もちろん、漏らした感覚も、その後の不快感も明確に感じる。

自分の周りで何が起きているか、音と感覚で認知することはできる。
思考はクリアなので、いろいろと思いを巡らせることはできる。
しかし、それを誰かに伝えることはできない。思いを書き残すこともできない。
ただひたすら一人で考え続けるだけなのだ。

人工呼吸器を付けたなら、最後の1〜2年は、そういった状態でただただ横たわり続けることになる。

そういった状況は、苦痛なだけではなく、人間の尊厳といったものを全て失われるに等しいと感じたようだ。

家族は、一旦は、本人の希望を最大限尊重することに決めた。

その後の経過

ALSにはいくつかタイプがあって、家族が罹患したものは進行が早いタイプだった。

半年後

半年後にはペンを握れなくなり、意思疎通は文字が書かれた文字盤で行うこととなった。
50音と数字が書かれた文字盤を使い、一文字ずつ指で指して意思を伝えるのだ。

ALS患者にとっては文字を一文字一文字指差すことにも莫大な体力と忍耐が必要だ。
筋肉が衰えた腕では、スムーズに文字を指差すことはできない。

文字を読み取る方にも慣れと忍耐が必要だ。
腕が震えてあちこち寄り道するうえに、目的の文字に到達するまでかなりの時間を要する。
さらに目的の文字で手を止めるのも難しいので、どの文字を指そうとしているのか、かなり分かりにくい。

目の動きで文字を指す「瞬きワープロ」というものもあるが、これは指差しタイプの文字盤よりも更に難易度が高いと聞いた。

病人は、思うようなスピードで意思を伝えることができないことに苛立ち、諦めを見せるようになった。

9ヶ月後

病人はほぼ動けなくなった。

一日無表情で横たわっているか座っているかなのだが、感情がないわけではない。
感情があっても、顔の筋肉が動かないのだ。

目を覗き込むと、訴えるような視線で見つめ返してくる。
勝手に気持ちを想像し、「うんうん、そうだね」といった曖昧な返答をする。

病人に話しかけるが、相槌も表情の変化も見られない相手に向かって一方的に話をし続けることは、結構難しい。
明るくにこやかにと心がけるが、内心は戸惑いでいっぱいだった。

そして、その日が来た

医者からは、本当に人工呼吸器を付けないかの確認をされていた。

病人の2人いる息子のうち1人は、親父の意思を尊重したいと言った。
もう1人の息子は、今後の医療の発展を信じて、できる限りのことがしたいと言った。

最終的に結論を出したのは、病人の妻だった。
夫の辛そうな姿を一番近くで見ている妻が、人工呼吸器を付けない選択をした。

病人の症状が悪化する前に、このことについて話し合えていて良かった。
病人の意思が固いことを確認できていたので、「意思を尊重する」ということができた。
もし病人の意思がわからないままであれば、結論を出すのはとても難しく、どんな結論であっても重く苦しいものであったと思う。

そして、ある日の夜。

睡眠中に呼吸を司る筋肉にALSが到達し、病人はそのまま静かに亡くなった。

生きるとは何か?

生きるって何だろう?

病人は、症状が悪化しても、肌に触れたら温かく、血が通っていた。
意識ははっきりしていて、思考もできていた。
身体も脳も、確かに生きていた。

でも、もし私が、自分の思いを全く表現できなくなり、ただ横たわり、じっと痛みに耐え、誰にも伝えることのできない思いをぐるぐると頭の中で考えているだけになったら、そこに自分が生きる意味を見いだせるだろうか?

この疑問が湧いてきた時、私自身が、切実に他者との繋がりを求めていることを知った。

「もし誰かに私の思いを伝えることができないのならば、私は生きていることにはならない!」

私の心の奥底に、この思いがあることをはっきりと自覚した。
 

ALS患者の安楽死問題が時々話題になり、そして消え去ることが、何回も繰り返されている。

緩和ケアで軽減できる痛みやストレスはあるだろう。
しかし、ALS患者が命を終えることを望むのは、身体が痛いからだけではない。
痛みやストレスが軽減されたとしても、人との繋がりを持つことに莫大な努力が必要な状態で、どれだけ生きる意味を感じていられるだろう。
私は、その莫大な努力を払ってまで生きていようという気力を持ち続けることができるだろうか。

安楽死の是非を考えるなら、まずは自分が生きる意味を考える必要があると思っている。
生きる意味は、人によって違ったものでいい。違うものであるはずだ。

人がみな、自分の生きる意味を考え抜いたのであれば、どんな選択であれ、その意志が尊重される社会が来ることを願っている。

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