苦しいうちは大丈夫。諦めていないということだから。


苦しさはシグナルだ

原因はよく分からないけれど、苦しいときがある。

仕事は楽ではないけれど、人間関係は悪くない。
恋人はしょっちゅう会えてはないけれど、喧嘩をしたわけでもない。
明日は久々に会う友人と大好きなお店で夕ご飯を食べる。
毎日にこれといった大きな不満があるわけではないけれど、このままでいいのか分からない。
何だか苦しい。辛い。
何もしたくないわけではないけれど、何をしていいか分からなくて動けない。

苦しさはシグナルだ。
今、問題に直面していることを教えてくれる。
もし問題に心当たりがないのに苦しいのなら、その苦しさは、今の自分がこれまでの自分の枠に収まらなくなったことを教えてくれているのかもしれない。

苦しいのなら、大丈夫だ。
苦しさというシグナルに反応できているということは、自分の心は、自分がまだまだ先に行けることを知っているのである。
ここで終わりと思ったら、苦しさは感じない。
今苦しいのであれば、それは前に進む力があるということなのだ。

人生の課題

人生にはそれぞれがクリアすべき課題がある。
その課題は、クリアするまで何度も何度も現れる。

付き合う男が全て浮気性だったり。
何度転職しても、入る会社が全てブラックだったり。
もしくは何度職種を変えて転職しても、いつの間にか同じ様な仕事ばかり任されたり。

周囲の環境を変えても同じことが起こる場合は、自分がそこから何かを学び取らないといけないということだ。
課題が難しかったら逃げるのは大いにありだ。
逃げることを学ぶことが課題かもしれないし、そうでなかったとしたら、そのうち形と難易度を変えて新たな課題が降ってくる。

そして、もしこれまでも何度も苦しい思いをしたことがあるなら、苦しさを見つめ抜くことが課題の可能性がある。
世界のどこかに、自分の感情を見つめ抜いた人だけがたどり着けるところがあるのだ。
そんなところに呼ばれても嬉しくないとは思うが、そこにある何かを手に入れないと人生の次のステージには進めない。
世の中にはそう生まれついた人もいるのだ。

人生はRPGである

人生はRPGに似ている。
(ちなみに私は初代のPlayStationが最後にプレーしたゲーム機なので、それ以降のRPG事情は知らない)
(本文とは全く関係ないが、女神転生シリーズが好きだった。ヒーホー!)

その主人公を選んだ場合は、とある村に立ち寄ってイベントをクリアしないと先に進めない。
必要なのは、隠された宝箱から謎の石を見つけることかもしれない。
長老と話をして、智恵を授かることかもしれない。
そこのボスを倒して、すごい剣を手に入れることかもしれない。

どんなイベントが発生するかは、その村にたどり着かないと分からない。
自動的にイベントが発生するのか、村人に片っ端から話し掛けなければいけないのかも、行ってみないと分からない。
ただともかく、その村に行かないことには、話は進まないのだ。

その村に行くために

苦しさを見つめ抜くことがその村に行くための課題であれば、ただひたすら自分の感情を見つめるしかない。
そして表現するのだ。
その苦しさを形にするのだ。

表現手段は何だっていい。
言葉。写真。音楽。絵。彫刻。踊り。スポーツ。他にもいろいろある。
自分の中にある苦しさを、重さも黒さも全てありのまま映し出すのだ。

上手い下手ではない。
自分の感情をどれだけ形に変えられるかである。
上手い感情、下手な感情というものが無いように、上手い下手は関係ない。

人と比較するものではない。
人と自分の感情は違うので、比較できるものではない。
自分の感情をうまく表現できないときに、他人の表現の参考になる部分を拝借することはあっていい。
しかし、どちらが上手いというものでもないし、比較の要素も無い。

ただひたすら自分と向き合うのだ。
それは孤独な時間となる。
それでもただひたすら自分と向き合うのだ。

私の場合

私のことを振り返る。

私は言葉が好きだ。
子供の頃から、心が動くと日記を書いていた。
嬉しい時も悲しい時も、自分の心の動きをノートにひたすら綴っていた。
就職した頃からノートを開くことは減っていった。
そして、2016年にブログを始めたことで、また自分と向き合うようになった。

文字を書けるようになってから40年近く経つ。
ブログを始めてから2年近くになる。

今、私は、とある村にたどり着いたような気がしている。
私をここに連れてきてくれたのは言葉だった。

たくさんの人が、私に素敵なことをいろいろ教えてくれている。
周囲を見回すと、仲間がたくさんいた。
自分とひたすら向き合っていたつもりが、いつの間にか仲間がいた。
それぞれの村に向かって歩んでいたり、村でイベント真っ最中だったり、村を出て新たな冒険に出ていたり、そんな多くの仲間たちだ。

私が今いるところが本当に私の村かは分からない。
どんなイベントが起こるのかもまだ分かっていない。

でも、確信を持てたことがある。
人は皆、それぞれの村を持っていること。
その村に行くには、自分をひたすら見つめることが必要なこと。
それは孤独を伴うものだが、その孤独が仲間を呼んでくれること。

人生は死ぬまで課題の連続だろう。
そこには遅すぎることも早すぎることもない。
今味わっている苦しみは今味わうことに意味があり、今向き合っている課題は今向き合うことに意味があるのだ。

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