再び「自分の心を殺すとはどういう意味か」を考える
自分で自分の思いを制限していないだろうか
「もし誰かに私の思いを伝えることができないのならば、私は生きていることにはならない!」
一つ前の記事で、自分の心の奥底にあるこの声に気づいた話を書いた。
これは、身体的な自由を失い、物理的に思いを伝える手段を持てなくなることの話だが、ふと思った。
身体に問題はなくても自分の思いを伝えることができないときもある。
もし自分自身で、自分の思いを伝えることを制限しているのならば、これは自分が生きているという事実を否定することではないだろうか。
自分の思いを表現できないとき
自分の思いを表現できない時、この2つのどちらかが原因だ。
周囲の顔色を見ている
かつての私はこのタイプだった。
ご飯を食べて美味しいと思っても、周囲の誰かが「美味しいね」と言わないうちは、自分から「これ美味しい!」とは言えなかった。
周囲が「これ美味しくない」と言ったら、自分は美味しいと思っても「そうだね、いまいちだね」などと言っていた。
人と違う意見を言うことが怖かった。
人と違う意見を言ったら嫌われると思い込んでいた。
自分の思いは自分にしか分からない。
正確に言うと、自分にもなかなか分からないが、他人にはもっと分からない。
一番自分の思いの近くにいるのは自分なのに、どうしてそれよりも他人の思いに寄り添うことを選ぶのか。
自分の思いより、他人の思いを優先しなければいけない理由はない。
諦めている
自分では思いを伝えたくても、それが相手に届かないと、伝えることを諦めるようになる。
自分の思いを伝えても、「はいはい」と生返事で受け流されたり、聞こえなかったふりをされたりすると、辛くなる。
最初は「聞こえなかったのかな?」「忙しい時に話しかけちゃって申し訳なかったな」と思って自分の気持ちを立て直すけれど、それが何度も続くと「話しかけても無駄だよな…」と諦めの気持ちになる。
また返事があっても、常に嫌味で返ってきたり、常に否定されていたりでは、話しかける気が起きなくなる。
これも、自分の思いを伝えることを諦める要因である。
「DV(ドメスティック・バイオレンス)」という言葉がある。
こう聞いて、真っ先に思い浮かぶのは殴る、蹴る、物を投げつけるといった肉体的暴力であるが、それだけではない。
生活費をごく少額しか渡さないといった経済的暴力もあれば、常に監視し束縛するという暴力もある。
そして、無視をしたり、常に嫌味や否定ばかりすることも、立派な暴力だ。
怪我をする肉体的暴力や、自由を奪われる経済的暴力等に比べて、無視や嫌味や否定については、する方は軽く考えている節がある。
しかし、相手の「生きている」という事実を踏みにじるという点において、無視や嫌味や否定は、肉体的暴力と全く変わりはない。
自分の思いを伝えられないことは心を殺すことである
人が日常的に自分の思いを伝えられない状況にいることについて、日常的に暴力を振るわれるといった目に見える危険に比べて軽視しがちなように思える。
周囲の顔色を伺っていた私は、とあるきっかけがあって、自分の思いを表に出すようになったのだが、それからの方が断然人生は楽しくなった。
長い間、自分で自分の思いを伝えることを放棄していた…つまり生きていることを放棄していたのだから、人生が楽しくないのは当たり前のことだろう。
しかし、それまで、自分が自分の思いを伝えていないことに対して、何も考えていなかった。
ブラック企業にいた私は、怒鳴られるのが怖くて、自分の思いを伝えられなくなっていた。
しかし、「いっそのこと暴力でも振るわれたら、ありえないと叫んで逃げ出せるのに」などと考えていた。
怒鳴られるくらいで逃げ出してはいけないと思い込んでいたのだ。
自分の思いを伝えられないほど怒鳴られ続けるのも、暴力を振るわれるのも、生きている意味を奪われるという点で全く変わりはないのに、気づいていなかった。
自分の思いを無視する自分とは、とっとと決別すればよかった。
私の思いを無視する会社からは、もっと早く逃げればよかった。
心理的な制限は、表面から見えないため対応が遅れがちだが、自分の思いを伝えられないということは生きている意味を奪われていることなので、その状況からはすぐに離れた方がいいのだ。
自分の思いを伝えられない状況を放置していたとき、私は、私の心を殺していたのであった。