心を取り戻すための小さな「快」の作り方
小さな「快」の作り方
心が疲れ果てているとき、小さな「快」を探すことが自分の心を取り戻すきっかけとなる。
人間は生まれた時は「興奮」という感情しか持っていない。
次に身につく感情が「快」「不快」だ。
人間にとってかなり原始的な感情なので、どんなに心が疲れ果てていても「快」「不快」を感じるセンサーは残っている。
「快」を感じるセンサーを呼び戻すことが、心に感情を取り戻す最初のきっかけになるのだ。
頰に当たる風、白く浮かぶ月、誰かの笑顔。
「快」を感じるポイントは人それぞれだ。
そして、「快」は探すだけではなく、自分で作ることもできる。
私は毎朝、川を見る。
何の変哲もない川だが、オンとオフを切り替えるスイッチであり、自分の心の状態を測るバロメーターにもなっている。
多摩川
10年以上前の当時、私は川の向こうに引越しをした。
毎日朝晩1時間ずつの通勤時間。
私の乗る電車は、朝は会社の最寄駅に着く15分前に、帰りは会社の最寄駅を出てから15分後に、川を渡った。
すぐに、川を渡る瞬間が好きになった。
朝は、川を越え、窓の外に見える高層ビルが増えてくると仕事モードに切り替わる。
帰りは、川の上に広がる暗闇を見ると心がほどける。
ある日の帰宅の電車で、ロングシートに座った私の目の前に、いかにもギャルな女の子とお似合いの男の子が立った。
二人はディズニーランド帰りらしく、ポップコーンを首に下げ、グッズでぱんぱんになったビニール袋を一つずつ持って、楽しかったねとキャーキャー賑やかにはしゃいでいる。
ディズニーランドで一日遊んだ後でもこんなに元気だなんて若さだなあと心の中で苦笑いをしていたら、男の子が言った。
「俺、多摩川を渡る瞬間って好きなんだよね。なんか、ほっとする。」
車窓から街の明かりが消え、暗闇が広がる。
鉄橋に差し掛かったために大きくなった走行音が車内の音をかき消す。
男の子は窓の外を見つめる。
女の子は多摩川についてこれといった感想は持っていないようだが、黙り込んだ男の子をそっと見守る優しさは持っていた。
すぐに電車は川を渡り終わり、川崎の町の明かりが車内に喧騒を呼び戻す。
男の子は女の子の方を見てにっこり笑い、女の子はそれを合図にまたキャーキャーはしゃぎだす。
それでも、私の心からは賑やかさへの苦い気持ちが消えていた。
通じ合ったなんて大それたことは思わない。
ただほんの一瞬、多摩川の暗闇を共有した、それだけなのだけど。
それから
それから男の子の真似をして、川を渡る瞬間には、何をしてても手を止めて外を見るようになった。
それまでも川を渡る瞬間は好きだったが、毎日意識して川を見るようにしたら、特別なものになっていった。
季節によって、川は表情を変える。
天気のいい日は水面がキラキラと光るのだが、季節によって光が違う。
冬には茶色い土手も、春には柔らかい緑になり、夏には力強い緑になる。
大雨の翌日は、茶色い水がたっぷりと流れる。
しばらくすると落ち着いて、また水面がキラキラと輝く。
そのうち、心が反応するようになってきた。
朝は、川を渡ると身が引き締まる。
夜は、川を渡ると心が解ける。
建物のない広い視界は、心を柔らかくし、ほっとする瞬間になった。
人それぞれ
それからまた引越しをし、今はまた違う川を渡って通勤をしている。
川沿いには桜並木。
春にはピンク色に、それから緑がどんどんと濃くなり、秋には紅く染まる。
その変化を見るだけで、心がほっとするのを感じる。
自分に余裕がないと、川を見ることを忘れるときがある。
川を見忘れたことに気がついたら、あえて立ち止まり深呼吸をするようにしている。
川さえ見れば、どんなに疲れていても心が少し柔らかくなり、自分を取り戻すことができる。
私にとっては川であるが、見るだけでほっとするものが、人それぞれあるだろう。
例えば、植木鉢。
葉っぱがツヤツヤしていたり、水が欲しくてしなっとしていたり、蕾をそっと付けていたり、毎日少しずつ変化している。
例えば、一枚の写真。
街並みに目が行ったり、写り込んだ知らない人が気になったり、その日の気分で見えるものが変わる。
自分にとってほっとするものを1つ見つけて、毎日数秒眺めるだけで、心が安らぐ時間を持つことができる。
わざわざ「快」を探しに行かなくても、それを見るだけで「快」を思い出せるものが1つあれば、心を取り戻すきっかけになるのだ。
自分にとってそれが何かすぐに思い出せないときは、空を見上げてみよう。
高く広い空。
空も毎日表情が違う。青の深さ、雲の位置、同じ空は2つとない。
その違いを毎日探しているうちに、心もつられて高く上り、広がっていく。
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