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典型的な「女の子」営業が、営業として機能していない自分を知った瞬間の話


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仕事に対する甘さ

今思うと、この頃、私は仕事を随分と舐めていた。
2年経っても営業としても基本すら身につけることは出来ていなかった。

「女の子」

刺身トレー屋での私の営業成績であるが、実はまあまあ良かった。
それは、当時、女性の営業を採用している刺身トレーメーカーは、日本中を探しても他になかったからである。

とにかく、若い女性の営業というだけで注目を浴びた。
「女となんて仕事をしない!」と最初から出入り禁止をくらう客先もあったが、ほとんどのお客様は親切にしてくれた。
中には、営業に訪れた私を見るだけで、「女の子がこんなところまで1人でやってくるなんて…。かわいそうに…。」と泣き出すお客様もいた。
普通は私が接待をする立場なのだが、お客様は私を飲みに連れていき、奢ってくれた。
そして、お客様達は「がんばってるね」と商品を買ってくれた。

今思うと、ただ「女の子」扱いをされていただけだった。
その証拠に、あちこちの客先から見合い話を持ち込まれた。
ビジネスの相手とは思われてなかったのだ。

当時の私はそのことに全く気づかず、お客様に愛されていると思い、安心していた。

刺身トレーはただのゴミなのか

入社して2年経っても、当初に感じた「私が売っている刺身トレーは、刺身を購入するお客様の手元に渡った瞬間にゴミになる」という思いをずっと持ち続けていた。
この思いは仕事をする上で私を苦しめた。

また、もう一つ私を苦しめる要因があった。
刺身トレーメーカーは何社もあるが、私のいる会社の製品の特徴は「安かろう悪かろう」だったのだ。
商品1ケースのうち、3〜5個は不良品があったが、その不良品分を引いても他社より安いというのが売りだった。

今なら分かる。
私はストレングスファインダーで言うところの「最上志向」持ちだ。
自分が「これは素晴らしい」と認めたものに価値を感じる性格なのである。

そして当時は人それぞれ価値観が違うとは思っていなかったため、私が価値を認めていないものは、お客様も価値を認めないと思ってしまっていた。
そのため、「安いけど品質が悪いし、そもそもゴミだし、こんな価値がない商品を売るなんて最悪」と思い込んで辛かったのだ。

しかし、実際は、刺身トレーもゴミになる前に「刺身をきれいに持ち帰られるようにする」という役割がちゃんとある。
そして、世の中には、「使い捨てのものは最低限の品質が保たれていれば安いもので構わない」と考える人もたくさんいる。

私は自分自身の考えのみが正しいものと思い込み、自社の商品の役割を知ろうとはしていなかったし、お客様の気持ちも聞こうとしたことはなかった。

自社の商品を知ろうとはせず、お客様の気持ちも聞こうとはしない。
営業の基本であり出発地点でもあるこの2点をやろうとはせずに、何が営業マンなのだろうか。

営業職としての2年働いたが、身についたのは御用聞きとしてのスキルだけだった。

現実を見る

ただ、私が目を覚ますきっかけをくれたのも、「女の子」であることだった。

大手の問屋とスーパーのバイヤーの会話

九州や北陸、東海や関西地方でも外れの方だと、御用聞き営業でもそこそこの売上を上げることができていた。
ただし、名古屋では通用しなかった。
名古屋には大きなスーパーや回転寿司屋があったが、そこに食い込むためには大手の問屋さんに営業をかける必要がある。
大手の問屋さんは「若い女の子」だからといって、商品を買ってくれることはなかった。

しかし、スーパー相手の営業に連れて行ってもらえたことがある。
問屋さんが、スーパーの鮮魚担当のバイヤーに会う口実として、業界内で噂の「若い女の子」を連れて行くと言ったらしかった。

そこでの会話に驚いた。
私が客先でする話は、まず天気の話。そして新製品の紹介くらいだ。
しかし、問屋さんとスーパーのバイヤーは、消費者の動向や売れ筋の変遷についての話をしている。
普段、どれだけ私が実のない話をしているかを思い知った。

そして、また別の日、自分の営業スタイルのダメさ加減を知る出来事が起こる。

きれいな提案書

とあるお客様のところに訪れたある日、そのお客様が興奮気味に見せてくれたものがある。
それは、同業他社の提案書だった。
普通は提案書を同業他社の営業に見せるのはマナー違反であるが、私は「女の子」でありビジネスの相手ではなかったので見せてくれたのだと思う。

見せてもらった提案書のそのページには、「売り場の広さが〇〇cm×〇〇cmなので、この刺身トレーは○列×○段並べることができます」と書いてあった。
そして、実際にその刺身トレーがずらりと売り場に並んだときのイメージ図が書かれていた。
売り場の雰囲気が一目でイメージできる、きれいな提案書だった。

今なら当たり前のものだが、1998年の魚市場では、そういうものを見たことはなかった。
私も提案書を見て驚いたし、ライバル社の資料ながら興奮した。
そもそも私は提案書なんて作ったことすらなかったのだ。

私も真似しようと絵を描いてみた。
あのきれいな提案書とは似ても似つかない、子供の落書きのようなものができた。

実は、私のいた会社は、営業マンはワープロとパソコンが使用禁止だった。
理由は、手書きのほうが早いと社長が言ったからである。
全営業が「それは社長だけだよっ!」と思ったはずだが、社長に対してノーを言える人がいなかったため、パソコンが使用禁止になった。

けれども、手書きで、あのきれいな提案書に対抗できる訳がない。

自分の営業スタイルでは、もうこの先やっていけないと、思い知った瞬間だった。

退職を決意

同じ会社の周囲の先輩たちも、私とそう変わらない仕事をしていた。
営業の肝は人間関係の構築だからと、50歳代であろうと客先の言いなりになっている。

客先のスーパーや回転寿司屋の新店開店の際は日曜日でも手伝いに行っていた。(もちろん無給だし、代休もない)
めちゃくちゃな納期を要求されたりもした。

私はこの先30年経っても、今と同じことをやり続けるのだろうか?
毎週月曜日に出張に出かけ、土曜日に戻る生活を続けるのだろうか?

そもそもこの営業スタイルで30年先も生き残っていけるのだろうか?

たぶん、いや、絶対無理!

そうは言っても、ずっと出張続きで自分の時間を持つことが難しかったため、そこからどう抜け出せばいいかも分からなかった。

まずは、自分の時間を確保しようと、私は退職届をしたためた。

次回に続く

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